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感話

M.W.さん(5年生)の感話 ー言葉と文章とー

2013/02/18

 「美しい文章を書ける女性って素敵ですよね。文は人を表すとも言います。どうぞ美しい女性になって下さい。」この言葉は、私が高校一年生の時に書いた夏休みの読書感想文に、先生が書いてくださったコメントの一部です。『たけくらべ』を選択した私は、「樋口一葉のような素晴らしい文章を書くことができる人になりたい。」と感想文を締めくくりました。ですから、先生のコメントは私のそんなささやかな目標をしっかりと受け止めて下さったように感じられてとても心に響きました。
 さて、皆さんは本が好きですか。私は幼い頃から読書が大好きです。今まで日本のみならず、外国の作品も色々と読んできました。そんな中、私はとても大好きな作家に出会いました。乙一さんという方です。中田永一という別名義で書いた『くちびるに歌を』が、第六十一回小学館児童出版文化賞に輝いたので、知っている人もいるかと思いますが、簡単に略歴を紹介します。弱冠十七歳で小説家デビューを果たし、二〇〇三年の『GOTHリストカット事件』で第三回本格ミステリ大賞を受賞、作家のみならず自主映画の監督、脚本家としても御活躍されています。ちなみに本格ミステリ大賞の歴代の受賞作には、あの東野圭吾さんの『容疑者Xの献身』などがあります。
 それではなぜ私が彼の作品を好きなのか。作品の内容もさることながら、私は乙一さんの書く文章にとても心惹かれるのです。彼の文章はとても淡々としていて、静謐な美しさを湛えています。特に会話文は独特で、話し言葉にしてはやや硬めとも言える程きっちりと整った言葉遣いが多用されています。しかしそれでも胸の奥をくすぐられるような温もりを感じることができるのです。私の中では彼の書く文章こそ「美しい文章」であり、その様な文章を書くことが出来る乙一さんに心から憧れるのです。
文章というものは言わずもがな、無数の言葉の連なりからできています。美しい文章は美しい言葉があってこそ成り立つものだと言うのが私の持論です。では、美しい言葉とは一体どの様な言葉なのでしょうか。冒頭の先生の御言葉を借りて「文は人を表す」とするならば、言葉だってその人自身を表していると言えるでしょう。例えば、先ほど挙げた乙一さんの場合、別名義について公表する前からネット上では「この作家は乙一に違いない」と囁かれていました。つまり、彼の文章はそれだけ独自性に富んでいると言えます。私が彼の文章を「美しい」と感じるのは、乙一さんが自分らしい、言い換えれば自分自身の言葉で文章を書いているからだと思います。自分で考え、感じたことを表現しようとすれば自ずと自分の言葉で文を綴る事になります。そこにその人らしさがにじみ出るのでしょう。
 ここで、さらに「言葉」について考えてみようと思います。私は中学三年生の時にも『言葉』と題した感話を書きました。読み返すのはなかなか恥ずかしいものでしたが、思い切ってページをめくってみると、二年前の私は拙い言葉で「言葉は人を傷つけるが、それを癒すのもまた言葉である」と述べていました。言葉に関する捉え方自体は今もあまり変わっていません。しかし感話を書き直していた時期に、まさにその「言葉」でちょっと嫌な思いをしたせいか、言葉の刃の部分についての記述の方が目立ちます。確かに言葉は人を傷つけますが、意見が偏っているのはかつての自分が公平な目で全体を俯瞰できていなかったからに他なりません。たった二年と思っていましたが、今と比べたらやはりまだまだ幼かったと痛感しました。
 では今の自分はどうかと言うと、思いの込められた言葉に何度も励まされています。最早昨年の事となった、実質最後の恵泉デー。その前日、フェロシップホールでは私の所属している課外ハンドベルの最後のリハーサルが行われていました。その最中、私は自分のあまりの出来なさに思わず涙を零しました。最後の恵泉デーだからこそ絶対に後悔はしたくなくて、それなのに失敗ばかりして、追い詰められて心が折れそうになったその時に、部長が私の背を叩き、強い語調でこう言いました。「まだ終わってないんだから。泣いてる暇はないよ」と。その言葉を聞いた瞬間、グラグラだった私の心がすっと落ち着いたのです。あの言葉がなければ私は翌日の本番を乗り切る事が出来なかったかも知れません。多分、優しい励ましの言葉だけを聞いていたら私はその言葉に甘えてしまっていたと思います。実際、「大丈夫」と声をかけられた途端に涙がどんどん溢れてきました。だから部長の言葉は、危うく自己憐憫に酔いかけた私を我に帰させてくれたのだと思います。一見厳しい彼女の言葉の中には部活を引っ張っていく重責を担う部長としても、一部員としても、最後の恵泉デーを成功させたいと言う強い思いがあったに違いないからです。この様に自分の「思い」が込められた言葉は、恐らく何者にも勝る力を受け取った人に与えると思います。
 ところで、皆さんはソーシャルネットワーキングサービス、略してSNSと呼ばれる媒体を日常的に活用していますか。SNSとはツイッターやLINE、フェイスブックなど、インターネットを介して他者と交流することを目的としたサービスの総称です。ツイッター本社は「ツイッターはSNSではない」としているようですが、他人と簡単に交流ができるというその性質に即してここではSNSの一部と見なして話を進めます。
今の時代、周りを見渡せばほとんどの人がなんらかのSNSに登録していますが、自分が直接会ったことのない知らない人とも手軽にコミュニケーションをとれるという点に、今の私はうっすらと違和感を覚えます。特にそう感じるのはツイッターです。それはなぜかと考えた時、百四十字という短い文字列で瞬発的に打ち出されるツイートは、文章であっても小説の様な文章ではなく、言葉のやり取りであっても面と向かって交わされる会話ではない、言わばその中間に位置している様なその性質にあるからではないかと思いました。確かに私は「文は人を表す」と言いましたが、先ほどの部長の言葉にしても、もし字面だけだったならば彼女の思いを正しく受け止められたか自信がありません。相手のことを良く知っていてもこうなのですから、知らない相手では尚更だと思います。勿論、ツイッターは瞬時に知りたい情報を多方面から得ることが出来ることなど多くの利面があることも承知していますし、魅力に感じてもいるのですが。
 文章は言葉から成ると言いました。言葉には人を成長させてくれる面があると思います。自分の知らない言葉、それこそ「美しい」言葉に触れた時、人は自分の感情を測る新しい尺度を手に入れることができ、それはその人の感受性を豊かにします。「可愛い」しか知らなかった子どもが「美しい」という言葉を知れば、その子供は可愛いものだけでなく美しいものも知覚することができる様になります。さらに「美しい」の同義語を知って自分の中の辞書に記し、語彙を増やしていけば、感じ取ることの出来る美しいものの種類も増え、どんどん視野が広がっていくのです。
 私のこれまで書き綴った文章は十七年という短い生涯を通して出会った言葉たちから構成されています。果たして「美しい文章」に少しでも近づけてはいるのでしょうか。恐らくまだまだだと思います。「言葉」という漢字は「言の葉」と読むことが出来ます。無数の美しい言葉の葉っぱを繁らせた文章の幹を持つ樹。その様な樹を心の内に宿せる美しい女性になれるよう、これからも歩んでいきたいと思います。