
感話
礼拝での感話
書く力・話す力・聞く力を生かして、生き方を考える
恵泉教育の特徴のひとつに「感話」があります。日頃感じたり考えたりしたことをまとめたもので、礼拝のときに年に3回他の生徒の前で述べます。1年生のときは原稿用紙で3枚から4枚、6年生になると7枚から8枚を書く生徒もいます。感話を書くということは、自己を見つめ、考える作業にほかなりません。従って、それは時に真剣な告白となって聞く者の心を揺さぶります。何を述べても受け容れられるという恵泉の環境があってこそ、はじめて成り立つものなのです。理想とする生き方、友人とのトラブル、留学から学んだこと、哲学や芸術について……多感な時期に感話を書き、また聞き続けることで、誠実に人生に向き合うことを学びます。
毎朝の礼拝
本校の1日は礼拝から始まります。それは、生徒一人ひとりが自己を見つめる静思の時。讃美歌を歌い、聖書を読み、共に祈る時間です。また、イースター礼拝、母の日礼拝、感謝祭礼拝、クリスマス礼拝、河井道記念礼拝などの特別礼拝では、講師を招いてお話を伺います。
自己と向き合う
生徒が日々の生活の中で感じたことや考えたことを述べる「感話」は、自己と向き合い、内面を掘り下げる大切な機会として、一人ひとりに与えられている、恵泉の礼拝の特色のひとつです。聞く者にとっても、新しい価値観に出会い啓発され、上級生や同級生の経験を追体験・共感できる場です。
豊かな表現力の育成
「感話」を書くことは、論理的思考能力の育成につながります。文章を書くことが苦手な生徒でも、文章の推敲を繰り返すうちに、文章で自分の考えを表現する力が自然と身につきます。また、他人の感話を聞くことも、物事を多面的に捉える力につながり、小論文入試にも大きく役立っていきます。
感話 新着記事
- 2025/10/06
様々な人と関わって
3年 A.A.
この夏、私は様々な大学、企業、施設などを訪問し、自分とは違う特徴を持つ人達、自分とは違う国や環境に暮らす人達との関わりについて考え、そのことを家族と話す機会を持ちました。
今年の七月末、私は同じクラブの友人に誘われ、牧ノ原やまばと学園訪問に参加しました。やまばと学園とその周辺施設は、静岡県の茶畑に囲まれたのどかなところにあり、そこでは高齢者や障害者の介護をおこなっています。今回、私たちは、そこで暮らす方々との交流、そしてその施設の清掃や手伝いなどを行いました。
高齢者施設を訪れた際には、何名かの利用者さんと遊んだり、一緒に運動をしたりしました。利用者さんのほとんどは手や足が思うように動かせない状態であり、私たちが普段当たり前にやっているようなことができませんでした。うまく体が動かせないために、一緒に遊んでいる最中に物を落としてしまったり、一緒に運動しようと思っても、なかなか動いてくださらないなど、かなりもどかしさを感じる場面がありました。私の方から話しかけても、利用者さんがあまり反応を示さないように見え、私は何をしてよいのか分からず、少し困惑してしまいました。ですが、施設の方は積極的に利用者さんに話しかけ、利用者さんが体を動かすのをサポートしていて、自分との経験の差を実感しました。利用者さんの様子も見ているうちに、反応を示していないように見えたのはあまり態度に表れていないだけで、反応しようとはしているということを何となく感じられるようになりました。また、一見すると怒っているように見える人もいたりして不安でしたが、施設の方は「皆、喜んでくれている」とおっしゃっていたので少し安心しました。
障害者施設への訪問では、施設の手伝いと知的障害者の方々との交流を行いました。利用者さんの年齢は様々で、中には文字を読むことができたり、少し話すことのできたりする方もいました。施設の方の話を聞いているときに急に体を触ってくる方もいて、戸惑うこともありましたが、それはその人なりのコミュニケーションで、私たちに興味があったのかもしれません。施設の方の話を聞いていると、その人の好きなことを把握していたり、優しく声をかけていたりと、一緒に過ごしていると相手の色々なことを理解することができるということ、逆に利用者さんも施設の方の言っていることを理解しているということを実感させられました。利用者さんの近くにいたり、歌を歌ったりする中で、少し緊張もしましたが、互いに言葉を交わさなくても、表情や身ぶり手ぶり、視線などで気持ちを理解しようとする姿勢を学びました。これらのことを振り返って私が感じたのは、上手く話すことができなくとも、相手を理解しようとする姿勢は大切だということです。以前、父や母と外国人に関する新聞記事について話し合った時、父は「外国人差別が起きるのは外国人を知らないからであり、一緒に仕事をしたり生活したりして友達になる必要がある」と言っていました。確かに、高齢者や障害者の方々に対する理解は十分とは言えず、不安になることもありました。何故なら高齢者や障害者の生活を日常において想像したり、主体的に調べようとしたことはほとんどなかったのです。その一方で、どう接すればよいのか分からない時でも、分かり合おうとする姿勢を常に持ち続けることが大切だと思いました。外国人差別に対しても、自分の尺度で相手を決めつけるのではなく、相手をよく知り、理解することが大切だと思います。
この夏の体験を通して、あまり反応を示さず意志疎通が上手くいかなそうな相手や、コミュニケーションをとるのが難しそうな相手でも、時間をかけて相手を知ろうとするということと向き合うことが出来ました。また、人との関わり、人を知るということの重要さを実感しました。誰に対しても、知る努力をするよう、正しく理解することができるようにしていきたいです。
- 2025/10/06
自己嫌悪
3年 R.I.
私は時々自分が嫌になるときがあります。いわゆる自己嫌悪です。私は基本的に自分のことが好きですし、幸せを感じることが多いと思っています。ですが、中学に入ってからマイナスな出来事が重なった時に落ち込みやすくなってしまったように感じます。おそらく思春期であることも関係していると思いますが、感情の波がより細かく、浮き沈みが激しくなりました。私がどういう感情の沈み方をしているかとその向きあい方について考えたいと思います。
私の沈んだときの思考回路はおそらく毎回同じで悲しい出来事がおきた際に自分ってダメだな、みんなにどう思われているんだろう、きっと嫌われているんだろうな、そんなことを考えている自分ってめんどくさい、自分が嫌いといったような沈み方をしてしまいます。ある番組で女性は比較的ヒロイン思考で感情的だと聞いたことがあるのですが、私は典型的な悲劇のヒロインタイプだなと思います。ひどい時は母に怒られただけで悲劇のヒロインループに入ってしまいます。そんな私がちょうど中学に入ったあたりから続けていることがあります。それが日記です。毎日あったことや思ったことをそのまま言語化しているので人に見せられる内容ではないのですが、思いのままに書く日記は一日がリセットされたように感じ、とてもすっきりします。何が悲しいのかを書きだしたりして、それをプラスな言葉に自分の中で替えて心のモヤモヤを晴らすことで自分を責める気持ちが減っていきます。逆に褒められたこと、嬉しかったこと、楽しかったことを書いて自分を肯定できて幸せなまま一日を終えられます。この習慣がとても好きで唯一といっていいほど長い間毎日続けられているルーティーンです。
話は変わりますが、私は勉強が苦手です。やらなきゃいけないなと思いますし、勉強することに楽しさややりがいを覚える瞬間もあるのですが、勉強のために机に向かうことをいつも後回しにしてしまいます。今は疲れているからなどと自分に言い訳してしまった結果、提出物の遅れやテストの点がとれないことに繋がってしまいます。このような時は、自分がなまけているのを自分の中で正当化して甘やかしていて悪い方向にいってしまっています。しかし、同じ勉強に関することでもがんばったのにテストの点が悪かったといったような、一生懸命やったのに結果がついてこなかったという時には、自分を認めてあげるべきだと思います。自分にいらだったときに、そこまでがんばった自身を褒めてあげる優しさと、自分に優しくなれるようにまずは一生懸命やる努力が必要です。勉強をしたくないから理由をつけて後回しにするような怠ける甘やかしはいらないですが、自分のがんばりを認めてあげる、受け入れてあげるという意味の甘やかしは必要だと思います。
この感話で自分についてもっと知れたような気がします。心のモヤモヤの正体を考えたり、自分の好きな所を探したり、楽しかったことを日記で書いて幸せだったなという余韻にひたりながら眠りについたり、自分の甘えが良い方にいったり、悪い方にいったり、そんな日々が結局幸せなのだと思いました。日々の出来事で感情が揺さぶられ毎日悩みは絶えないですが、少し自分の気持ちとの向き合い方が分かったように感じます。常に好きな自分であるために毎日アップデートしていきたいです。そんな自分をもっと好きになれそうです。
- 2025/07/07
ホストシスターとしての四日間
3年 R.Y.
留学生を受け入れた経験は、たった四日間という短い期間でしたが、異文化交流の楽しさ、人に喜んでもらえることの嬉しさ、そして自分自身の成長を感じました。
留学生とのやり取りは、二か月ほど前から始まりました。相手はアメリカから来る高校生で、日本語を少し勉強していましたが、まだ慣れていない様子でした。最初はお互いに自己紹介をし、日本での生活や趣味について話すうちに、徐々に仲良くなっていきました。メールのやり取りでは、私は例えば、「今日は何したの?」や「日本で遊びに行くのが楽しみだね」といったできる限り丁寧な言葉を使うことを意識し、彼女も簡単な日本語で返事をくれました。私が送った日本語を理解してもらえないことも多く、言葉の壁を感じつつも、お互いのことを理解できるようになっていきました。四日間という限られた時間の中で、やりたいことや食べたいものをできるだけ多く楽しめるよう、例えば、ラーメンや焼肉などの日本食を食べにいくことや、箱根に日本の自然を見に行くこと、浅草で着物体験を一緒にすることなど、いろいろと計画を立てました。やり取りを重ねるうちに、彼女が日本に来ることを楽しみにしている気持ちが伝わってきて、私もその期待に応えたいという思いが強くなりました。実際に彼女を受け入れると、四日間は本当にあっという間に過ぎていきました。彼女にとって日本は初めての国で戸惑うこともあったと思います。私は、彼女が少しでも快適に過ごせるようにできる限りサポートを心がけました。例えば、買い物のときにお金の計算が難しそうだったので、「これを出せば大丈夫だよ」と声をかけて手助けしました。自分の行動が誰かの役に立つことの嬉しさを改めて感じることができました。四日間の中で特に印象に残っているのは、異文化交流の楽しさです。彼女と話していると、日本とアメリカの違いにたくさん気付くことができました。例えば、同じチェーン店でも国によってはメニューや味が違う理由について話していたとき、私は「アメリカでは濃い味付けが好まれているけど、日本ではあっさりした味が多いんだよ」と説明しました。また、移動手段について話していたときには、日本では電車やバスが発達しているため、車がなくても便利なことや、夜でもアメリカよりは治安が良いため安全だと伝えると、彼女はとても驚いていました。彼女は書道や着物体験にも興味を持ってくれ、日本の文化にたくさん触れようとしてくれました。例えば、「どうして日本の学校では靴を履き替えるの?」という質問に対して、私は「外の汚れを室内に持ち込まないためだよ」と答えました。さらに、「着物と浴衣の違いは何?」と聞かれたときには、自分でもうまく説明できず、家族に聞いたりインターネットで調べたりして「着物は正式な場で着る厚手の着物で、浴衣は夏のお祭りなどで着る軽い着物だよ」と伝えました。このように、当たり前だと思っていたことを説明することで、自分の知識の不十分さに気付き、学び直す機会にもなりました。また、彼女もオーケストラクラブに所属しており、同じK-POPアイドルが好きだったことから、国や言葉が違っても音楽という趣味を通して自然と距離が縮まることを実感しました。文化の違いがあっても楽しく関わることができることを感じました。この経験を通して、最初は、会ったことも話したこともない相手とコミュニケーションをとることに不安がありましたが、毎日のやり取りを通して、相手の立場に立って考える力や分かりやすく丁寧に伝える力が少しずつ身についたように感じます。普段の友達との会話とは違い、丁寧に言葉を選ぶことが多く、そうした積み重ねが自分にとって大きな学びとなりました。
四日間という短い期間でしたが、この経験は私にとって非常に貴重で、これからの人生に大きな影響を与えるものとなりました。異文化交流の楽しさ、人との関わりの大切さを改めて感じ、これからもいろいろな国や地域の人々と交流していきたいという気持ちが強くなりました。
- 2025/07/07
真面目
3年 A.H.
皆さんは「真面目」という言葉を褒め言葉としてとらえますか。私は褒め言葉として受けることができません。
なぜなら、この言葉の裏にある意味に違和感を感じているからです。学校生活の中で友達に「真面目だね」と言われることがよくあります。「真面目」を辞書で引くと「誠実であること」と書いてありました。しかし私はその言葉を言われるたびに、本来の意味とは違うところが協調されているように感じて、素直に喜ぶことができませんでした。例えば、私は試験期間、家にいるとどうしてもユーチューブやスマートフォンを見たくなってしまうため、勉強に集中するために図書館に行きます。私にとってテスト期間に勉強に集中することはあたり前ですが、そんな話をすると「え、真面目だね」と言われます。その度に私はどうしても居心地の悪さを感じてしまいます。相手に「あなたは私と違う」とつきはなされたような気がして、その話を避けるようになりました。「真面目」と言われるとき、私は無意識にその言葉が私を他の人と「違う」と認識させるものだと感じてしまいます。それが「あなたは他の人と違うから、もっと自由に楽しんだり、ふざけたりした方がいいよ」「もっと面白い方がいいよ」と暗に言われているように思えて、私はその場にいることが少し苦しくなることがあります。特に、周りが笑っているときに自分だけがあまりはしゃげないと、少し疎外感を感じてしまいます。みんなと同じように楽しめない自分が、どこか間違っているように思えてきて、それが「私とは違うから仲良くできない」と感じる一因になっているかもしれません。
そのように、私は、周りの人たちが楽しんでいるときに、自分だけが違う感じがすることが嫌でした。しかし、真面目でいることは、むしろ大切な場面では必要なことだと感じるようになりました。大人になって、社会で生きていく上でやらなければいけないことをきちんとやることはとても大切です、自分が真面目であることで、周りの人と違う部分があるかもしれませんが、それは決して悪いことではないと気付きました。例えば、学校生活の中で勉強をしっかりやっていると、テストや宿題の成績が良くなります。それは自分の努力の証です。また、部活動でも真面目に取り組むことは、同輩に良い影響を与えたり、自分自身の技術が上達することにも繋がります。さらに、真面目でいることで、「この人なら大丈夫」と周りの人に信頼してもらえます。だから、私は真面目でいることが決して悪いことではなく、むしろ大切なことであると感じています。確かに、時にはみんなと同じようにふざけたり、上手く肩の荷を下ろすことができない自分に寂しさやもどかしさを感じることもありますが、それが必ずしも「間違っているわけではない」と思うことができるようになりました。
今は、他の人と違っていても、真面目であることが自分らしさであると思っています。最初は嫌だった「真面目」という言葉ですが、真面目でいることは、ただルールを守ったり勉強を頑張るだけでなく、周りに対して誠実であること、責任感を持つこと、そして自分の価値を大切にすることだと今は思います。だから「真面目」と言われることは、むしろ自分がしっかりと物事に取り込み、努力している証だと、褒め言葉だと思うことができるようになりました。だから私はこれからも、自分の「真面目」なところを大切にしていきたいと思っています。
- 2025/06/23
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