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感話

H.Y.さん(5年生)の感話

2013/02/13

 二ヶ月ほど前、私は一つの出来事を通して人と人とのつながりについて考えさせられました。
 ある日の朝、私はいつも通り学校へ向かうため、二本目の電車に乗ろうと階段を下りてホームに行きました。そこにはいつもと違って埋め尽くされるほど多くの通勤者や通学者がいました。電車が遅れていたのです。その駅は通勤や通学をする際に、乗り換えの主要となる駅で、人の出入りが多いため、一本電車が遅れるとさらに遅れていきます。しかしその遅れを取り戻すことができるわけもなく、私は列に並んでやっとのことで混み合っている電車に乗り、自分が下りる終点の駅を目指しました。ところが終点まであと半分くらいという時、座席の前で立っていた私がふとドアの方に目をやると、ボロボロのリュックを背負った息の荒い男性がいました。そのうち男性が一人でぶつぶつと口を動かして何かを言い始めましたが、私は少し変わった人だと思い、初めは見て見ぬふりをしていました。もう一度私が目をやると、その男性は苦しそうに胸を押さえて急に座り込んだ様子でした。そして手すりに掴まったり、背負っていたリュックを下にして、車内に寝転がったりを繰り返すようになったのです。周りの人もその男性の異変に段々と気が付いているようでした。しかし一刻も早く自分の目的地に着きたいのか、知らない人には関わりたくないのか、その男性に声をかけることもせず、それどころか、その男性を見ながら電車を降りて行きました。
 少しして、すぐそばに座っていた人が、「大丈夫ですか。席譲りますよ。座ってくだい。」と言いましたが、その男性はすぐに良くなるからと言ってそれを断りました。そして、優先席に座っていた人に向かってこう切り出したのです。「目の前に具合の悪い人がいるのに、誰も席を譲ってくれない。これでは優先席の意味がない。」と。それからすぐ、その男性は電車を降り、そのまま狭いホームに座りこんでしまいました。そして驚いたことに、同じ駅で降りた人は大勢いるのに、皆その男性を避けて次々と目の前を素通りしていくだけなのです。私は身動きがとれない電車の中で、ただ黙って離れた所から、その状況を目で追うことしかできませんでした。気付けば動いていく電車で、その男性の姿は見えなくなっていたのです。
 私はこの時のことを今でも鮮明に覚えています。全く関係のない授業中など、ふとした瞬間に嫌でも長いようで短かったこの出来事が私の頭の中に出てくることがあります。その度に私は「あの後、男性はどうなったのだろうか」、「見ている以外に本当は何かできたのではないか」と、あれこれ考え始めるのです。
 また、この出来事で私が強く目の当たりにしたことがあります。それは日本人のつながりの弱さでした。『自分に関係のないことには関わりを持たない』という現代の人に多い態度を初めて自分の目で見て痛感した私は、「親切」や「思いやり」という言葉が一体何のためにあるのかと疑いたくなるほどでした。もしあの男性が自分にとって身近な人だったら、私もあの車両に乗っていた人たちも、我先にと助けを求めて電車を止めていたでしょう。しかし現実には、他人と自分、他人と身内という区別がはっきりとつけられていて、つながりが無ければ無関心のまま、その場を去ってしまうというのが事実です。では、つながりが無ければ助けなくてもいいのでしょうか。決してそんなことはありません。あの時あの男性に手を差しのべることができたのは、他でもない乗客の私たちだけだったのです。同じ時に同じ場所にいる人だけが相手を気遣い、助け合い、励ますことができるのだと、今更ながら気付かされました。そしてこれは私たちの日々の生活に対しても言えることのような気がします。
 恵泉でも度々、近所に住む方から生徒へのお礼の言葉があったと聞く機会がありますが、こうした話を聞くと心が温かくなります。私はそういう小さいけれど、人の心に大きく響くような親切な行為こそ、見習うべきものの一つではないかと、最近感じるようになりました。
 私たちはいつも自分の家族や友人など周りの人に囲まれた生活を送っています。何か嫌なことがあった時も、話を聞いてくれる人がいて、共に考えてくれる人がいます。当たり前すぎて気付かないかもしれないけれど、そうやって頼れる人がいることも、忘れてはいけない幸せだと、これらの出来事を通して心から思いました。
 おそらく、電車の中での出来事は、しばらく私の心から消えることはないと思います。それでも二か月前の私は、そういう状況に遭遇してしまった運の悪い人たち、助け合うという心の無さにショックを受けた人たちの一人、というだけで終わっていたかもしれません。それが今、こうして人とのつながりの大切さを改めて実感することができました。
 これから社会に出て行く私たちは、多くの人と同じ時間を共有します。その中で新しく出会うであろう人とも、感謝の気持ちを持って接し、互いに助け合う存在としてつながりを持とうと思いました。しかし、それは同時に自分の行動や発言に責任を持つ必要がある、ということを意味します。私たちは他人の心を完璧に理解することは出来ません。大袈裟に言えば、今自分の隣にいる人が、また、少し前まで普通に会話をしていた人が、急に会えなくなってしまうことだってあり得ます。私たちは毎日そういう状況に立たされているのです。それは二年前の東日本大震災で、日本人の誰もが思ったことでしょう。私たちは日本人だけでなく、海外の救助隊やアーティストの方までもが、少しでも早い被災地の復興を願っていることを、メディアを通して知りました。そして自分たちがどれほど恵まれた環境にいるのか、また毎日笑顔でいられることの素晴らしさを再確認することができました。そういう私たちだからこそ自分の言動をよく吟味しなければなりません。人は必ず誰かにとって貴重で大切な存在であると私は思います。今回の経験で言うと、あの男性は私からすれば正直全く関係無く、あの日偶然目にした人でしかありません。それでも、男性の家族や友人の視点からすれば、男性は一人の人間として確立され、必要とされているのです。
 この様に考えると、私たちは自分から相手へ、相手からその周りへと、視野を広げていかなければならないのだと感じます。しかしこれは、自分の周りで誰が何をしているのか、観察する、ということではありません。自分がその人に対して何ができるのか、どんな影響を与えることができるのか、それらを常に考えていくことだと思います。だから私は今まで築き上げてきた『人とのつながり』を大切にし、さらにその中から自分があるべき姿、果たすべき役割や責任を見つけていきたいです。