校長ブログ
高校礼拝

ビニールハウス前に咲くヒルザキツキミソウ

確率1/16
2016年6月7日(火) 高校礼拝
讃美歌 273b
暗誦聖句 交読文41 マタイ伝5章
初めから「幸いなるかなこころの清き者、その人は神を見ん」まで
聖書 マタイ11:20−30
お話 「信仰に導かれて」
讃美歌 546
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先週6月3日は、私の誕生日でした。37歳になりました。
私には、二つ誕生日があります。一つは、「オギャー」と(たぶん)叫んで生まれた日です。もう一は、イエス様を信じて歩いていこうと決心し、それを公に告白した日です。いわゆる受洗日です。受洗する1年くらい前から、教会に通い始めました。ある人から、教会に誘われたのです。自分自身も大きな問題にぶつかっていましたが、それを教会で解決しようなどとは全く思ってもいませんでした。
教会と信仰という言葉に触れた時、高校1年生の時に読んだ、パスカルの書いたパンセを思い出しました。パスカルは、神の存在を論理的に証明しようとしました。パンセという本は、パスカルの考えたことを短い文章にまとめ、集めた本です。
断章347にはこのような、有名な言葉があります。
人間は一茎(ひとくき)の葦に過ぎない。自然のうちで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼を押し潰すには、全宇宙が武装するには及ばない。一吹きの蒸気、一滴の水が、彼を殺すに十分である。しかし宇宙が彼を押し潰しても、人間は彼を殺すものよりなおいっそう高貴であろう。なぜかと言えば、彼は自己の死ぬことと宇宙が彼を超えていることとを知っているが、宇宙はそれについて何も知らないからである。そうだとすれば、我々のあらゆる尊厳は思考の中に存する。
断章233には、信仰に入るための「賭けの必要性」が書かれています。
簡単に説明するとこのようになります。神が存在するかしないかの場合を信仰を持った場合と持たなかった場合の結果で考察するというものです。事柄の期待値です。パスカルは数学の確率論の先駆者ですからなかなか面白い発想をしています。
(1)信仰を持つ。そして、神が存在した場合。聖書の言う通りにその人は、無限大の恵みが与えられます。プラス無限大の祝福を得る。
(2)信仰を持ち。しかし、神が存在しなかった場合。その人は、倫理的に多少窮屈な生活をするが、不利益はあまりない。有限値のマイナス。
(3)信仰を持たない。しかし、神が存在した場合。今日の聖書箇所の前半に書いてあるように、裁きの日に重い罰に預かる。マイナス∞。
(4)信仰を持たない。そして、神も存在しなかった場合。今の普通の生活が続く。±0。
パスカルは、そのような思考実験を行い、信仰を持つ重要性を論じています。
私は、信仰を持って、神が存在した場合の「無限大の祝福」に少し憧れました。しかし、まだ躊躇するものがありました。
当時私は、タバコの煙で向こう側が霞んで見えないくらいの大きな部屋で、それに相当する大きなエアコンの前の机で、仕事をしていました。仕事中でしたが、この問題に早く決着をつけたく思っていました。私は、財布から10円玉を取り出して、10円という字が書いてある方を表として、表が出たら教会に行く、という賭けをすることにしました。そして、親指で10円玉を空中高くはじき投げ、手のひらでキャッチし、どちらの面が表われたかを見ることにしました。1回目の試行。見ると10円という文字が書かれている表が出ました。でもこれは、二分一の確率だから、もう一度投げて表が出たら行く、と条件を少し厳しくしました。2回目の試行。同じ試行を繰り返しました。10円玉を放り投げ、手のひらでキャッチし、絵柄をみたら、表の10円でした。これが出る確率は、四分の一。素直に認められない気持ちがあり、もう一度表が出たらと行くと決め、3回目の試行。結果は、表。もしかしたら、両面に10円としか書かれている特異な硬貨ではないかと思い裏返しをしました。平等院鳳凰堂の図柄がちゃんとありました。あるいは、製造過程で硬貨の重心が10円の面が出易くなっている方にあるのかもしれない。ならば、今度は、裏が出たら教会に行くと決めました。4回目の試行。手のひらに収まった10円玉は、平等院鳳凰堂の絵柄がありました。表、表、表、裏の出る数学的確率は、十六分の一、6.25%です。大学の確率論の授業で確率が百分率で一桁ならば、奇跡と呼んで良い、という先生の言葉を思い出しました。これは、奇跡だ。お前は、奇跡に導かれている。自分自身を納得させて教会に行きました。
今日の中心的な聖書箇所は、28節だと思います。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
この言葉が自分にとって真実な言葉だとしたら、このような慰めに満ちた言葉は、ないと思います。信仰をもって受け止められれば、この上もない神の安らぎが保障されます。しかし、信仰の味付けなしに客観的にとらえれば、この言葉は、イエスが群衆に対して語った聖書の記事というだけです。
人間関係で疲れている人はいませんか。自分に与えられや重荷で苦しんでる人はいないでしょうか。現代人は、多かれ少なかれこのような、疲れや重荷を日々経験しています。
イエス様の教えを聞いて、素晴らしいと思ったり、イエス様の行った奇跡に驚いても、一歩踏み出してみないとこの言葉の味わいを知ることができません。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」とヘブライ人の手紙11章1節に書かれています。
イエス様を信じて、疲れなくなったとか、重荷がなくなったということでは決してありません。疲れが多くても、溜まっていても、休息を与えてくださる方を見つけることができるということです。その方のもとで休むことができるという事です。重荷が以前より増えても、ともに担ってくださる方を見出すということです。
どうぞ恵泉に選ばれた一人ひとりがイエス様との個人的な交わりを深めて、生活していただきたいと思います。
(それが創立者河井道先生の一番の願いですから。)









