校長ブログ
牧師・教会関係者との懇談会
2016年度 牧師・教会関係者懇談会 2016/06/07
讃美歌 164
聖書 使徒言行録3:5−8
:5 その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、
:6 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
:7 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、
:8 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
お話 「金銀は我になし、然(さ)れど」
祈り
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今私の使っている聖書は、拾いものです。現在の「重い皮膚病」という訳が、以前のままですから、今から20年以上前のものです。男女共学の前任校に勤めていた時、中学の卒業式が終わった夕方、卒業した生徒が廊下に捨てていったものです。名前が青いボールペンで裏表紙に書いてあります。ここでは、T君としましょう。T君は、海外からの帰国生徒でした。国内にいた時は、体が弱く病院付属の学校いわゆる院内学級ですごし、海外では親の転勤で複数の国の現地校に通った経歴がありました。中学の途中で編入してきました。勉強が遅れているため、いくつかの教科が取り出しクラスでしたが、数学も少人数の取り出しクラスで学んでいました。中3の時は、私が数学を担当していました。
反抗的でなかなか課題に取り組むことができませんでした。原則的に、高校に進学できるのですが、他校に進学することになりました。そのT君がどんな気持ちで、自分の聖書を捨てて行ったか。彼にこそ、聖書の福音が必要だったのに、それを伝えることができなかった。
私は、キリスト教教育とはいったい何だったのかという問いを突き付けられた気がしました。毎日のルーティンワークの忙しさに、ともすればキリスト教学校の存在意義を忘れがちな私は、T君の名前入りの聖書を持つことにしました。いや、神様が彼のその行為を通して、私にキリスト教の教育の原点とは何かを、忘れさせないようにしたのでしょう。
今日の聖書箇所の前を少しお読みします。
使徒言行録 3章
:1 ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。
:2 すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。
:3 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。
:4 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。
:5 その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、
となります。
4節で、ペトロとヨハネは足の不自由な男をじっと見、そして、「私たちを見なさい」と言うのです。鶏が鳴く前に3度イエス様を裏切ったペトロが、です。イエス様の十字架で赦され、「今」生きている私たちを見なさい、という言葉は、教会はもちろん、イエス様を救い主と信じ、それを教育の基に据える学校で、信仰の戸口に立っている人に、私たちが言える言葉ではないでしょうか。生徒が、救いの業に預かった私の背景に働かれているイエス様を見ることができれば、キリスト教学校の使命を半分果たしたことになるのではないでしょうか。
そして、もう一つは今日のタイトルです。教会も学校も金銭的には貧しいところです。金や銀というこの世の富は、魅力的です。しかし、私たちには、憎しみを愛に変え、暗闇を光に変え、死を命に代えることのできる「イエス様の御名」が与えられているのです。
使徒の働き2章36節に、このように書かれています。
「だから、イスラエルの全家(ぜんか)は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
名は性質を表すと言います。救い主イエスの御名の御性質は、出エジプト記34:6,7節に書かれています。
主、神、憐れみ深い、情け深い、怒るに遅い、恵みに富む、真に富む、すべての恵みを千代にも保つ、咎を赦す、背きを赦す、罪を赦す、正しい裁き手。
このような御名がキリスト教の学校に与えられているのです。金銀をもってしても替えられない無尽蔵な富を私たちは、頂いています。このことを深く感謝して、謹んで日々の業に励んでいきましょう。
今日は、生徒が通っている教会の牧師先生や教会学校の責任者の方々とお話しできることを感謝します。