校長ブログ
2学期始業礼拝(1〜5年)
2015年8月26日(水)1−5年 2学期始業礼拝
讃美歌 333
交読文 詩篇23篇(文語体)
聖書 ルカ13:22−35
お話 「なんでもない日おめでとう」
祈り
黙祷
こうして再び元気なみなさんとお会いすることができて、とっても嬉しいです。今年の夏は、熱中症による被害も例年より多く、クラブ日の活動がとても気になっていました。朝の10時50分と11時50分には、必ずと言っていいほど危険度4の星印「運動は原則中止」という熱中症情報が送られてきました。顧問の先生や日直の先生のご判断で、無事に2学期が始まることができたのは、感謝です。また、中高生に関わる様々な事件もあり、心配していました。神様の守りがあったことを感謝します。
今日の聖書では、次の部分を注目したいと思います。13章24節「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」という箇所です。
聖書では、自分は信仰を持っていると思っていても、その人が神の国に入れるかは、わからないというのです。人が神の国に入れるかどうかは、その人が決めることではなく、神様が決めることだからです。決定的に何が違うのでしょうか。それは、その人に悔い改めがあるかどうかです。自分は、罪人だという、自覚です。人の過ちを見つけるのは、易しいことです。しかし、自分の過ちを素直に認めることは、易しいことではありません。
ルカ18:9−14にある、「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえが、よく事柄を示しています。
:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
「義とされて家にかえった」とは、神様の前で正しいものとされて、神の国に入ったという、意味にとりました。神の国に入ることができたのは、徴税人であって、ファリサイ派のひとではありません。
私が夏休み中に、気になったことを一つだけお話しさせて下さい。
8月9日のニュースにこのような記事がありました。8月9日9時ディズニーの公式ツイッターに、「なんでもない日おめでとう。」と書き込みがありました。それを見た人たちから、8月9日が長崎「原爆の日」であることから「なんでもない日じゃない」と多くの非難があり、ツイッターが炎上したとのことでした。
「日本国民を馬鹿にしているのか」「何万人も殺された日なのに、知ったことではないというのか?」という非難から、あれはアニメ映画「アリス」で流れる歌の1シーンを紹介したもので「お誕生日じゃない日」という言葉を意訳しただけで、悪意はない」と弁護する書き込みもあったそうです。しばらくして、その日の19時5分に、お詫びとして謝罪の文が載っていました。
確かに70年前の8月に長崎と広島で、歴史上かつてない最も残虐な近代兵器による殺戮が行われました。1945年に亡くなった方は、広島で約14万人、長崎で約7万4千人。長崎では、2015年7月までに、16万8767人の方々が亡くなりました。
癒されない心と回復しない身体の傷を抱えながら、その重荷を背負い、今も苦しんでおられる方も多くおられます。だからこそ、ネット上で声高に非難し平和の意味を知らしめたのでしょう。私もそのように思っていました。しかし、一枚の写真よってその気持ちが変えられました。
10日の早朝、(ドイツでは、まだ9日の深夜)ドイツから何枚かの写真が送られてきました。バルト海に面するドイツ北部リューベックという美しい都市にあるマリエン教会の写真でした。マリエン教会は、13世紀に建てられたゴシック建築の美しい教会です。塔の高さが75mもあり、所有しているパイプオルガンも有名で、音楽家バッハはこのオルガンに魅せられこの教会に通ったそうです。一枚の写真には、押しつぶされて黒く焼けただれ壊れた鐘の写真がありました。マリエン教会は、第二次世界大戦中に、イギリス軍の爆撃で大部分が破壊されました。戦後復元されましたが、爆撃で崩れ落ちた二つの塔の鐘が、新しく建てられた教会の塔の下に、ひっそりとそのまま残されています。写真は、70年前の戦争の暴力を静かに、しかし厳しく見せつけています。
日本の原爆と同様にドイツのこの壊れた鐘は、戦争は加害者も被害者も区別のないことを示しています。戦争前は、地域の人々に平和の響きを伝えた鐘が、今は沈黙して世界の人々に平和の尊さを物語っているのです。
平和の主張は、言葉数の多さではなく、むしろ言葉の沈黙にあるのではないかと感じさせられました。
一人ひとりが心の奥に、被害にあわれた方々の犠牲によってもたらされた平和の恵みを受け取り、今ある平和に静かに感謝することが大切ではないかと思いました。
ある詩を突然思い出しました。イギリスの詩人ロバート・ブラウニングの「春の朝(あした)」という詩です。うだるような暑さの日中に、です。
時は春、
日は朝(あした)、
朝は七時、
片岡に露みちて、
揚雲雀なのりいで、
蝸牛枝に這ひ、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。〈上田敏(うえだ びん)訳〉
平和という言葉は一言もないのですが、神様が天におられ、この世に何も起こらないことが平和なんだ、と40年前の中学校で国語の先生が黒板に書いて下さった授業を思い出しました。
「赤毛のアン」は、この詩の最後の二行の引用で終わっています。村岡花子訳では「神は天にいまし 世はすべてこともなし」となっていると最近知りました。
「なんでもない日」とは、もしかしたらこのような日ではないでしょうか。私たちは、70年前の出来事から学び、今まで戦争をすることもなく、戦争に巻き込まれることもなく過ごしてきました。「なんでもない日おめでとう」ということばが毎日語られるような、そのような平和が続くことを戦後70年めの8月15日に祈りました。
いよいよ2学期が始まりました。一日一日を大切にして、相手には優しく思いやりを持ち、自分自身は少し厳しく見つめながら、新しい学校生活の歩みを始めましょう。神様が天におられ、この世を支配しておられることを信じて。