校長ブログ
高校卒業式
蝋梅の花
讃美歌 494(わがゆくみち いついかに)
聖書 イザヤ書55章8節から11節
卒業生のみなさん、ご卒業おめでとうございます。今日ここに第66回高等学校卒業式を執り行うことができますことを大きな喜びとともに、私たちの信じる神様に感謝致します。来賓の方々、保護者の方々、お祝いのこの会場にご列席くださり、巣立っていく175名の卒業の証人となって下さったことをありがとうございます。
卒業生の多くの皆さんは、2008年4月に、恵泉女学園中学校に入学しました。卒業式の6日前、2011年3月11日に東日本大震災が起こり式は中止となりました。今日、私はその時の中学校卒業式を重ねて、あなた方お一人お一人に高等学校の卒業証書をお渡ししたつもりです。卒業証書の重さと時の長さをどのようにお感じになられたでしょうか。
あなたがたが入学した年、恵泉女学園・短期大学園芸生活学科があった伊勢原キャンパスから何本かの木々が記念樹としてこの世田谷キャンパスに移植されました。その内の一本がビニールハウス手前にある蝋梅の木です。毎年2月の凍り付くような寒気の中、中学入試の緊張した受験生に鮮やかな黄色の花を咲かせ、高貴な甘い香りを放ち、リラックスさせています。花言葉は、「優しさ」です。蝋梅は種から育てると、花をつけるのに6年かかるといいます。今年は、恵泉創立84周年です。6年後は、ちょうど創立90周年になります。創立90周年という記念の年に初めて花を咲かせる、それはすばらしいあなたがたへのプレゼントになると思いました。種を200個採集して、園芸科の先生にお願いして、ビニールポットに植えてもらいました。ところが今現在でも、2つのポットに芽が出ただけです。とても175人分もありません。花が蝋梅だけに、私は慌てふためいてしまいまさいた。
今日の聖書の御言葉、イザヤ書55章8節には、こう書かれています。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なる」と。神様の思いは、私の思いとは違っていたのです。この御言葉が預言者イザヤに与えたとき、イスラエルの人々はバビロニアに移されていました。そこで、異国の神々を礼拝し、その王国のために働く、という生活を強いられていたのです。魂も身体も、真の神ではない偶像に捧げていました。
21世紀を生きる今の私たちは、そのようなものと無縁といえるでしょうか。私たちには、偶像はないでしょうか。捕らわれ、縛られ、そこから解放されていない偶像はないのでしょうか。
一番の私たちの偶像は、自己中心という偶像だと思います。生きている間付きまとう偶像です。何事も自分が中心でないと納得できない。隣人の苦しみへの想像力に欠け、世界は自分を中心に回っている。そのような高慢な考えが自己中心です。
上手くいっているときには、その偶像には気が付きません。失敗したり挫折したときに、神様はその失敗や挫折を通して自分が拝む偶像という自己中心をあぶり出し、見せて下さいます。
9節 の言葉は、私の自己中心という世界を超えた、もう一つの現実な世界があることを示しています。
創立者の河井道先生が8歳の時に、お祖父様とお父様は、伊勢神宮の神官の職を解かれました。更に、大好きなお祖父様は財産を失ってしまいます。失意のうち河井先生の家族は、北海道に渡ります。人間的にみると財産を失い、社会的地位を失い、家を失い、生まれ故郷を後にすることは、大変辛い出来事です。陽気でおしゃべりな子供は、すっかり無口で臆病になってしまいました。河井先生の歩まれた道は、苦難で困難の多いイバラの道のように思われます。しかし、先生の神様の取り扱いは、先生ご自身の偶像を壊すことではなかったのかと思います。神様は、先生から、精神的な拠り所、経済的な支え、生活の居場所、すべてを取り上げたのです。先生は、自分中心の世界を幼少の頃から既に、お持ちになっておられなかった。そのように私は思います。時間がたちそれを振り返ると、先生の歩まれた道は、決してイバラの道ではなっかたのです。北海道で、家に引きこもりがちな先生に、優しく教養のあるお父様が、伊勢にいたときよりも十分に時間をかけて教育して下さいました。また、函館でキリスト教の信仰を持つ伯父さんに出会います。このような不思議な導きで、河井先生のお父様は、キリスト教信仰に導かれていきます。やがて、道先生も信仰を持つのです。
河井先生は、函館にあるミッションスクールの寮に入ります。この学校で集団生活にうまく適応できない悩みと裁縫箱紛失の出来事で苦しみを経験します。先生は、この学校を退学します。この出来事も辛い苦しい出来事ではありました。が、無駄ではありませんでした。先生は、食前の祈りを覚え、いくつかの賛美歌を知って、お父様の前で歌うことができました。この経験は、札幌でのミス・クララ・スミス先生のつくった学校で学び、生活するという体験に活かされました。キリスト者河井道の教育者としての原点は、挫折と苦しみが、予め進む道に備えられていたのです。
ヨハネによる福音書14章6節『イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。」』という御言葉があります。この御言葉は、イエス様が、旧約聖書に書かれた神の道を私たちに導く道であったことに気付かされます。旧約聖書では、神様の示される道は、私たちの道とは、所詮異なるというのです。「天が地を高く超えているように」神の道と人の道は、あまりにも隔たりが大きく、いつまで行っても交わらない平行線なのです。しかし、神の御子のイエス様は、この平行の道をご自分自身を通して、結びつけられたのでした。イエス様は、私たちを慰めと平安と希望が約束されている神の道に導いて下さるのです。それは、イエス様が十字架で私たちの罪をあがない、復活され、神様の右の座に着座されたからです。イエス様の十字架が、天の道と地の道との架け橋になったのです。二本の平行線がイエス様を交点として交わるのです。その交点を通し、私たちは祈りによって神様の思いを知ることができるのです。
河井“道”先生の歩まれた“道”の要所要所のターニングポイント(転換点)に、イエス様との出会い、信仰の恵みが鮮やかに現れているのを見ることができます。
私たちの生活の背後に、私たちの知らないもう一つ上の真実の世界がある、と申しました。それは、自己中心からは決して見えない世界です。しかし、自己中心という偶像を十字架に付けることによって、イエス様によって一つ上の世界と私たちの世界が初めて結びつけられるのです。その世界と繋がる道を、今、あなたがたは歩もうとしているのです。
10節「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。」は、恵泉生ならば、説明するまでもないところでしょう。天から降る雨や雪は、大地を潤し、地中に浸み込み、泉をつくります。泉から湧き出る水は、川となり、生き物のいのちを支えます。植物は芽をだし、葉を茂らせ、花を咲かせ、実をならせます。実は、食することができ、そして、種が取れ、次の世代にいのちを繋げていくのです。
昨年の夏、天城山荘で行われた修養会のテーマが「畑」でした。2008年4月に一人一人という苗が恵泉という畑に移植されて、6年が経過したことになります。
11節の「わたしの口から出るわたしの言葉」とは、聖書の御言葉です。神様の御言葉も大地へ降り注ぐ雨や雪と同じだと、イザヤは見ます。雨と雪は、天と地を結び、神の言葉も神と私たちを結ぶからです。恵泉で語られた毎朝の礼拝での御言葉一つ一つが天から降り注ぎ、泉となって湧き出でるいのちの水でした。私たちは、この御言葉によって、慰めを与えられ、希望を与えられ、生きる勇気を与えられました。豊かに水を含んだ細胞によって植物が凛と立つように、この恵泉女学園も御言葉によって整えられたあなたがた生徒によって、しなやかな瑞々しい姿で世田谷の地に80余年建ち続けているのです。これからも建ち続けるでしょう。
11節後半「それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」とあります。御言葉によって養われたあなた方は、神様の望むことを成し遂げ、神様の与えた使命を必ず果たすことができるのです。それは御言葉の預言であり、神様の約束です。
それは、例えば、 3.11の出来事から今日までの3年間、あなたがたは、信和会をはじめとして被災地の方々を覚え、支援し、ともに寄り添って生きてきました。共に生きるという言葉を、身体で感じ、頭で考え、行動を起こした3年間でした。震災が起きてからの年月が、あなたがたの高校生活の3年間と重なっていた事は、決して偶然ではないのです。震災の記憶が薄らいでいく中、今なお26万人以上の多くの方々が避難生活を強いられ、原発による放射性物質の除去する作業も収束にはほぼ遠いのが実態です。このような現実を引きおいながら、あなたがたは、共に生きていくという大きな役割を担い、自分の使命を果たして下さることを信じています。
それは、「沙漠に花を咲かせるような」困難で辛い仕事かもしれません。「友なき人の友となる」、目立たない仕事かもしれません。
世界に目を向ければ、強いものだけが生き残るという経済原理を前面に、新自由主義が広がっています。日本では、隣国との武力による争いも辞さない新国家主義が台頭しています。
今こそ、河井道先生の掲げた「平和への不屈の意志を持った自立した女性」として、あなたがたが「汝の光を輝かす」時代なのです。
これから歩む人生に、疲れたり、傷ついたり、希望がもてなくなったとき、6年間で蓄えた神様の言葉を思い返してください。それは、天から届き、恵泉であなたに住み着いた御言葉です。その御言葉が、あなたを偶像から解き放ち、あなたを真に生かし、強め、慰め、助け、あなたしか歩むことのできない道へ、導いて下さいます。
それでも、辛く、悲しく、苦しいときは、いつでもここ「あなたの畑」である恵泉に戻って来て下さい。恵泉女学園はいつまでも、いつまでもあなたの畑・母校なのです。しかし今は心配は、全く要りません。安心して羽ばたいて行って下さい。今日の聖書箇所の次の節12節には、このように書かれているからです。
「あなたがたは喜び祝いながら出で立ち、平和のうちに導かれて行く」この卒業という恵みを、喜び祝いながら巣立って行こうではありませんか。平和の神様があなたをイエス様の道へと導いて下さっています。