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校長ブログ

中学卒業式

2014/03/17

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校舎北側に咲く白梅の花

讃美歌 534(ほむべきかな 主のみめぐみ)
聖書  コリントの信徒の手紙一15章9,10節

 卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。また、保護者の皆様心よりお祝い申し上げます。保護者の方々は、3年前の4月の入学式に思いを馳せ、3年間でこのように心身共に大きく成長なさったお嬢様の姿をご覧になり感慨無量なことと思います。  青年期前期・思春期と呼ばれるこの時期は、ご家庭にとっても、あなた方にとっても揺れ動く変化の大きな3年間でありました。理想の自分と現実の自分を知って、自分自身との葛藤もあったでしょう。親をも含め大人に対する反抗心もあったでしょう。友人関係での辛いトラブルもあったでしょう。勉強に対する疑問や不満もあったことと思います。でもそれは、すべて成長に必要な出来事だったのです。あなたがた198名は、目には見えないけれども大きな殻を破って、最後の義務教育である中学校の課程を終了して、今ここ恵泉女学園中学校から卒業していきます。

 あなた方が入学する1ヶ月前、2011年3月11日に東日本大震災がありました。学園では、中学校の卒業式は、中止となりました。新入生を歓迎する入学式が行えるのかどうか、大変不安でした。それでもなんとか入学式を行うことができました。  3年前の入学式は、ヨハネによる福音書15章16節「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」という御言葉が読まれた記憶があると思います。神様は、あなたをここ恵泉女学園に招いて下さり、あなたを神様の器として成長させて下さったのです。器の形はそれぞれ異なっていても、恵みの泉から生きた命の水をたたえているのです。この3年間は、あなたを成長させる3年間でした。

 いろいろな出会いがありました。1年の夏休み前に伊豆の天城山荘でフェロシップがあり、そこでは創立者河井道先生とこれからともに過ごす友達と出会いました。毎日の礼拝では、私たちに目をとめ、大切にしてくださっている神様と出会いました。1年の園芸の授業や2年の清里自然学校でのキャンプでは、多くの自然の不思議さと出会いました。国語や英語や数学などの勉強を通して、先生方との出会い、また、学問の真理を学び、もっと知りたい、学びたいという自分の内側にある知的な促しにも出会ったことでしょう。合唱コンクールや恵泉デーを通して、一つのことに向かって、自分の役割を自覚し、互いに意見を出しながら良いものを築き上げようと努力しました。考え方を異にするために、気まずくなったこともあるでしょう。でも、それを乗り越えて、互いに尊重できる本当の友人に出会った人もいるでしょう。クラブ活動では、自分の意見をはっきり言える尊敬できる上級生との出会いがありました。  あの3.11の出来事から、もはや私たちは一人で自分勝手な生活ができないことを学びました。隣人の痛みを感じ、共に生きていくことの大切さを学びました。未だに、多くの方が避難生活をなさり、放射線量の数値に恐怖を持っておられます。このような時代をあなた方は生きて行かなければなりません。  入学式で読まれた聖書箇所後半は次のように書かれています。「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネによる福音書15章16節) 神様が恵泉に、あなたがたを選んだ理由は、「あなたがたが出ていって実を結ぶためだったのです。」

 今日の聖書の御言葉は、コリントの信徒への手紙第一の15章にあります。イエス・キリストの使徒パウロによって書かれています。この15章は、復活の章と呼ばれています。15章の始めでは、1節に「わたしがあなたがたに告げ知らせた福音」、3節に「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。」と書かれています。さらに、4節にわたって「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」と書かれています。聖書に書かれている大切な事柄は、十字架と復活です。十字架とは、キリストが私たちの罪の身代わりになって死んで下さった事実であり、復活は、私たちがキリストに預かって永遠の命を持つ約束です。パウロが命がけで私たちに伝えた、よい知らせとは、このことです。    その15章10節に今日の中心の御言葉があります。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」  園芸によって植物のことは、詳しくなったと思います。ですから、植物を例にとって話しましょう。植物が生長して実をならせるためには、何が必要でしょうか。  植物がしっかり、根を張りからだを保つための土壌です。植物の細胞に行き渡り、栄養を運ぶ水です。生育に必要な温度です。光合成を行わせるための、二酸化炭素と光です。そして、窒素・リン酸・カリウムの栄養素です。これに加えて、植物を育てるためには、雑草を取り除く草取りが不可欠です。暑い夏休みは、園芸科の先生方が麦わら帽子をかぶり、タオルで顔を覆い、水筒を持って草取りをしています。大変な作業です。これに、水やりが加わりますから園芸科の先生は、ほとんど夏休みをとれません。花を咲かせ、実をならすためには、このような働きにも支えられています。植物は、自分では、何もすることができないのに、このようなことがなされて初めて、実をつけることができるのです。何もしていないのに、与えられるすばらしい贈りものを恵みと言います。  人間の成長も全く同じです。あなたは、自分が大きく成長したことを実感しているでしょう。それはそれですばらしいことです。しかし、自分の力のみによって成長できたのではないのです。あなたの成長は、家族の支え、友人の励ましがあり、学校という囲いの中で守られ、育まれていたのです。周りの支えて下さった方々への感謝の気持ちを大切にして下さい。そして、それらすべての背後に、あなたを愛し、あなたを守り、導いて下さった神様の恵みがあることを知って下さい。  「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」を英語訳聖書では、‘By the grace of God I am what I am.’と書かれています。「神の恵みによって私は、私という存在になった」と訳せます。神の恵みによって、本来の私、ありのままの私になったのです。    あなたがたの入学した年度から、恵泉女学園の中高では、あなた方の希望の進路を確実にするための取組が始まりました。2011年から、正式に中高一貫校になり、新しい中学校のカリキュラムになりました。月、水、金が7時間目まで授業になりました。このため、中1に、自分で学習する習慣をしっかりつける自学という時間ができました。中2では数学5時間、理科4時間、中3では英語が6時間と、それぞれ1時間増えました。高校の授業「情報」を中学で前倒しに行いました。主体的に学ぶS-parkという取り組みも始まりました。今年の中3は、100名を超える122名の希望者があり、3クラスで行いました。そのため、生徒数の多い一クラス55名は、信和会室で勉強しました。時々、様子を拝見させて頂きました。静かに真剣に取り組む態度を見て、今年の中3は、知的な取り組みが素直にできる学年だと思いました。その結果は、確実に現れて来ています。高校でも新カリキュラムが次年度完成します。

 中学生活は、ある人によっては、充実した3年間であったでしょう。しかし、ある人にとっては決してそのような3年間ではなかったかもしれません。辛く、苦しく、人には言えないような孤独な3年間であったかもしれません。例えそうだとしても、神様はそのような状況を通してさえ、いや、そのような状況だからこそ、あなたを恵みのうちに養い育てて下さっていたのです。  先月の末に、キープ自然学校から、3トンもの堆肥を頂きました。この堆肥は、皆さんが中学2年の時に清里自然学校で行った牛舎掃除から出てきた牛の糞や藁が肥料になったものです。朝5時に起きて、眠い目を擦りながら牛舎に行きました。牛たちを放牧し、空になった牛舎でスコップで牛の糞を掻き出し、ブラシできれいにします。掻き出したものは、孤輪車(こりんしゃ)で運びます。臭いが鼻について気になったり、跳ね返りが顔にかかったりで、はじめは中々作業は、捗りません。  掻き出された牛糞は半年経つと、臭いが全くなくなります。それに、手を入れると暖かいのです。有機物が微生物によって分解し、発酵しているからです。それを更に熟成させると堆肥ができあがり、最高の畑の肥料になります。今年の恵泉の畑の肥料は、2年前のあなた方の労力によるものです。畑はそれにより、美しい花を咲かせ豊かな作物を生み出すのです。私たちは、苦労や忍耐を避けて通りたいといつも思います。しかし、苦労や忍耐は、実はすばらしいプレゼントをもたらすのです。牛の糞が色とりどりの花や美味しい野菜に変わるのです。これも神様の恵みの働きです。  あなた方のこれからの歩みには、苦労や忍耐が必要なときが必ず訪れます。その時、聖書のこの御言葉は、ここまで導いて下さった神様に信頼していけばよいことを示しています。ここまで自分がやって来られたのは、自分の力ばかりではなく、神様の恵みだったことを知るからです。苦しみと忍耐は、神様の恵みによって発酵し、熟成され、希望となるのです。  あなたがたは、この希望を持って中学を卒業します。希望とは何でしょうか。ヘブライ人への手紙6章19節にこのように書いてあります。「わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨(いかり)のようなものであり」と。錨とは、船を安全な場所に留めておくものです。希望は、「魂を留めおく錨」なのです。

 今日の聖書の箇所で、パウロは、「使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。」と告白しています。ペトロやヨハネをはじめ12弟子は3年間の間イエス様と一緒に生活しました。しかしパウロは、生前のイエス様を知らないのです。イエス様の顔も声も振る舞いも知らないのです。さらに、パウロは、イエス様の教会を破壊し、信徒を迫害しました。ところが、ダマスコにいく途中で、復活したイエス様の声を聞いたのです。そしてパウロの人生は、大きく変わりました。神様はいつも、人の弱さの中にご自身の力を表します。パウロの弱さの中に、パウロの打ちひしがれた状況の中にあっても、神様は忍耐強く、助け、支え、守り、導いてくださったのです。だから、パウロは、自分の使徒としての功績を自慢したり誇ったりしないのです。「働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にいた神の恵みなのです。」と付け加えることを忘れません。  中学時代、ほとんど登校できなかった人でも、高校に進学してからは、登校できるようになり、優秀な成績を納めた人を私は何人も知っています。恵泉女学園中学校を卒業して、そのまま恵泉女学園高等学校へ進学する人、他の学校へ進学する人にも、等しくこのパウロの人生を大きく変えたイエス・キリストにある復活の力が注がれているのです。  神様の恵みが、復活の章に、割り込むように書かれている意味は、恵みと復活の力は、切り離せないものだということを示しています。   神の恵みは、無駄になるどころか、これから巣立つあなた方に