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校長ブログ

中学校礼拝「ルターの祈り」

2016/10/03
校庭に咲くサフラン

校庭に咲くサフラン

中学礼拝   2016年10月3日(月)

                        奏楽者 筒井淳子
前奏   『主イエスを愛する身こそ幸いなれ』  デール・ウッド作曲
讃美歌  267 「神はわがやぐら」
暗唱聖句 交読文 28 詩119篇 
     おのが道を直(なお)くして、
      主の律法(おきて)を歩むものは幸いなり、
     主のもろもろの証(あかし)をまもり、
      心をつくして主を尋(たず)ね求る者は幸(さいわ)いなり、
     若き人は何よりてか、その道をきよめん、
      御言葉(みことば)にしたがいて、つつしむのほかぞなき。
     われ汝にむかいて罪をおかすまじきために、
      汝の言葉をわが心のうちにたくわえたり。
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 1章1節から5節
祈り
黙祷
後奏 オルガンコンチェルトより G.F.ヘンデル作曲

 

明後日から2学期の第一中間試験が始まります。もうすでに、そのための準備をしていることと思います。今回からこの試験のやり方を変えようと思います。一科目につき一万円払えば、合格にします、十万円払えば「5」となります、と言ったら、皆さんはどう思われますか。ほとんどの人は、それはおかしい、間違ってると思うでしょう。その感覚はある意味では正しいのです。試験は、お金を積んで合格にしたり、点数を上げたりするものではないからです。

 今から500年ほど前、中世のキリスト教界は、金銭を積むことによって自分の罪が赦され、天国に行くことができると、免罪符を売り出しました。当時、ヴィッテンベルク大学神学教授のマルチン・ルターは、「そのようなことはない。私たちが、救われるのは、律法をきちんと守ったり、努力をして何かをすることによってではなく、イエス・キリストを信じる信仰によってのみである。」と免罪符に疑問を持ち、ローマ教会に抗議してヴィッテンベルク市の教会に95ヶ条の論題(議論をするための95個のポイント)を貼り出しました。それは、ラテン語で紙に書かれ、教会の木の扉に釘づけされたものでした。95ヶ条の論題は、当時のキリスト教神学の誤りを指摘し、問題提起し、議論する性格のものでした。
これが、宗教改革の幕開けとなりました。来年でちょうど500年目を迎える1517年10月31日です。現在は、宗教改革記念日とされています。ドイツの作曲家メンデルスゾーンは、ルターの作曲した今朝の讃美歌「神はわがやぐら」をモチーフとして、交響曲第5番「宗教改革」を作曲しています。

 ルターは、何度も自説の撤回を求められますが、1521年4月17日ヴォルムス国会で議会から求められた時、次のように述べて、自説の撤回を拒絶します。「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいきません。私はここに立っています。神よ、私を助けて下さい。」これと同じ祈りを捧げた人がいます。
創立者の河井道先生は、第2次世界大戦の最中(さなか)、農芸専門学校を学園に設置するためにご努力なさいました。1945年2月27日に設置のための提出書類を持って、当時の文部省に赴きました。

 そのとき、係官は、「基督教ノ信仰ニ拠ル」は、取り去る事ができないかと求めました。係官は、「今は、国をあげて、最も愛国的にならねばならない、非常時なのです。あなたのキリスト教主旨なり信仰なりを、紙面に記さなくとも、(学校を)保つことはできるのです」。河井先生は、「生きているかぎり、私は書面に記されていようといなかろうと、私はキリスト教の信仰を自分の学校の土台とする所存です。けれども、学校の寄付行為(設立の目的を明確にした文章)に、それが明確に記されておりませんと、学園長が代わった場合、その土台について、どんな保証があるというのでしょう?」
係官の厳しい言葉が続きます。それに対して、河井先生は「私には、何もございません。ただ、キリスト教の信仰のみが、国へ、次世代へ捧げる私の最上の宝です。」とおっしゃり、心ひそかに、ルターの祈りを祈ります。「私はここに立っております。神様、私をお助けください。」
その時、係官の方から「『基督教ノ精神ニ拠ル』と書きかえてはどうか。」という提案がありました。
「その文章の組み立ては、もとのものよりすぐれているくらいであった!これもまた奇跡としか、言いようがない。」(「史料室資料」より)

 詩篇119篇28節にこのような言葉があります。
「わたしの魂は悲しんで涙を流しています。御言葉のとおり、わたしを立ち直らせてください。」
ルターは、その後教会から破門され、さまざまな非難、迫害を受けることになります。厳しい試練と戦いが続きます。ルターの悲しみの涙は、戦いへと変えられます。「私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われる」というのが、聖書の中心メッセージだという戦いです。
ルターに、情熱と力を与えた御言葉は、パウロによって書かれた「ローマ人への手紙」と、この「ガラテヤの信徒への手紙」といわれています。特に、この「ガラテヤの信徒への手紙」では、パウロの凄まじいまでの、福音への熱く燃える熱意とひたむきな真心を感じ取ることができます。
今日の聖書箇所では、4節に心が留められます。
キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。

イエス様が十字架につけられる場面を思い起こして下さい。
イエス様は、十字架上でこのように叫ばれます。
イエス様は、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(ヨハネによる福音者19章30節)
神による人の救いは、十字架上のイエス様の死によって終わったのです。
ルターは、大学で詩篇の講義をしていた時、詩篇22篇2節の言葉の正しい意味を知ります。
「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻(うめ)きも言葉も聞いてくださらないのか。」
(詩篇22篇2節)
ルター自身を悩ませていたこの言葉の中に、イエス・キリストが私たち人間の罪をご自身に背負い、神の御子が自ら人間の苦しみを受けられた、という神の愛の偉大さを示すものであることをルターは、知ったのでした。

今日から礼拝で読まれるガラテヤの信徒への手紙は、ガラテヤ地方の諸教会がパウロの教えから離れ、ユダヤ教的な律法主義の教えに動かされ、割礼を受けなければ救われないという、全く異なった福音を信じようとしていたのを止めさせるために、パウロによって書かれました。
ある信仰者は、このガラテヤの信徒への手紙を書いたパウロの心情は、「あたかも自分の子供を他のものに奪われてしまって、吠え叫ぶライオンの親の叫びのようだ」と表現しています。それほどのパウロの情熱をこの手紙に感じることができます。
「お金や行い、人の地位や努力によって人は、救われるのではなく、ただ、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われる」というのが福音です。
天国に入るために試験があったとしたら、私はいつも0点です。どんなに努力しても、神様の正しさの前では、0点です。しかし、私の罪にために死なれたイエス・キリストを信じることによって、イエス・キリストの正しさゆえに、神様は私に満点をつけてくださるのです。これが福音、良い知らせです。福音の恵みをこの「ガラテヤの信徒への手紙」で味わい、自分のものとして下さい。それは、パウロ、ルター、河井先生を貫く信仰の生命線なのです。
 (ただし、水曜日からの中間試験では、あなたの努力が問われてしまいます。)