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中学校礼拝 「罪から、愛へ」10月16日(水)

2019/10/16

黙祷
讃美歌  191
暗誦聖句 交読文28 詩119篇
                おのが道を直(なお)くして、 主の律法(おきて)を歩む者は幸いなり。
               主のもろもろの証(あかし)をまもり、心をつくして主を尋(たず)ね求むる者は幸いなり。
               若き人は何によりてか、その道をきよめん、御言葉にしたがいて、つつしむのほかぞなき。
               われ汝にむかいて罪をおかすまじきために、汝の言葉をわが心のうちにたくわえたり。
               なんじ、わが目をひらき、汝の法(のり)のうちなる奇(くす)しきことを、我に見せたまえ。
聖書 ガラテヤ5章2節〜15節
お話   罪から、愛へ
祈り
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 台風19号の影響で、なくなられた方が70人以上もいらっしゃいます。また、ケガをしたり、家を失った方もとてもたくさんおられます。ライフラインをはじめ、道路、線路等復旧に時間がかかるところも広範囲に広がっています。恵泉の生徒のお宅でも、停電のため親戚の家庭に避難している人もいます。被災された方々が慰められ、助けられ、今まで通りの生活が戻ってくるようにお祈りください。
(祈り)

 今日の箇所は「キリスト者の自由」という表題で書かれています。
イエス様を信じた人には、自由が与えられたのです。その自由とは、一体何でしょうか。教会では、「私は、イエス様を信じて救われました」とよく言います。信仰を持つことを「救われた」と言います。では、何から救われたのでしょうか。「病気」から救われたのでしょうか。「貧困」から救われたのでしょうか。「成績不振」から救われたのでしょうか。いいえ、どれも外れです。「罪」から救われたのです。神様の目から見て、罪は罰を受けます。
 ガラテヤの信徒への手紙は、イエス様を信じる信仰によってのみ、人は神様から義(正しいとされ、神の御国に入ることができる)とされる、ということを説いています。すなわち、イエス様の十字架によって、私たちは、罪から開放され、永遠の命を持ち、神の国に入れる、と言っているのです。罪がなければ、罰もありません。それがイエス様を信じるキリスト者の自由です。

 ユダヤ人は、罪を犯さないように、律法を厳しく守るように教えられていました。実は、これを守るのは大変です。旧約時代のユダヤ人は、罪を犯してしまった、あるいは罪を犯したかもしれない自分たちを神様からの罰が下るのを恐れて、毎日神殿で生贄として動物を捧げていました。牛や羊や鳩などです。イエス様が十字架の上で、死なれたことは、イエス様ご自身が私の罪のために代わりに十字架で身代わりになったということです。イエス様のことを神の子羊と言うのは、イエス様が生贄の役割を果たしたということを明らかにする言葉です。私は、イエス様の十字架によって、神様からの罰から救われたのです。

 聖書は、素晴らしい書物です。神様の愛が溢れるばかりに語られています。ヨハネの手紙 第一の1章9節には、
「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」とあります。これが救われたという意味です。私は、イエスがキリストであることを知ったとき、今まで自分が犯してきた罪で、自覚しているものを祈りの中で告白し、赦してもらいました。心が本当に軽くなったのを覚えています。自由を得たのです。

ガラテヤの手紙、5章1節「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」

 今月の31日は、宗教改革記念日です。ハロウィンの日ではありません。マルチンル・ルターが1517年に、罪から来る罰は、善い行いや献金などをすれば、免除される、という当時のキリスト教の教えに抗議したのです。ルターは、罪からの自由は、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ行われる、と説いたのです。そして、ルターは、イエス・キリストを信じる信仰は、ただ「何々からの救い」だけではない、「何々への救い」だと、強調したそうです。私達は、旅行する人に会うと「どこから来ましたか」と聞きます。そして、「どこへ行くのですか」とも聞きます。「どこから」と「どこへ」は、対の言葉です。それでは、罪からの自由は、どこへ行く自由でしょうか。6節には、「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」とあります。自由は何をやっても構わないという自由ではありません。キリスト者の自由は、イエス様に結ばれていて、イエス様を中心としたところにあります。

 今日のハイライトの聖句は、13節ではないでしょうか。
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」、とはっきり書かれています。「罪からの自由」は、「愛への自由」に展開していくのです。神様を信じる者の自由は、愛をなすために与えられた自由です。聖書では、愛を生み出さない身勝手な自由は、自由とは呼びません。自由は、愛を生み出すために与えられた恵みです。

 14節には、「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。」とあります。

  神様から愛されている自分を知り、その愛で隣の人を愛するということが、神様の求めておられることです。90回目の恵泉デーが近づいてきました。今年の恵泉デーのテーマはありません。自由です。与えられた自由を愛を用いて表現してください。