校長ブログ
合唱コンクール開会礼拝 9月20日(金)
讃美歌 453
暗誦聖句 交読文28 詩篇119篇
おのが道を直(なお)くして、主の律法(おきて)を歩むものは幸いなり。
主のもろもろの証(あかし)をまもり、心をつくして主を尋ね求むる者は幸いなり。
若き人は何によりてか、その道をきよめん、御言葉にしたがいて、つつしむのほかぞなき。
聖書 詩篇33篇1節から3節
:1 主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。
:2 琴を奏でて主に感謝をささげ/十弦の琴を奏でてほめ歌をうたえ。
:3 新しい歌を主に向かってうたい/美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。
祈り
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今月9月9日、台風15号の影響で、千葉県内を走る鉄道や高速バスが運休しました。成田空港では多くの利用客が足止めされ、1万人を超える人々が空港内で夜を明かしたそうです。
その時、空港で足止めされた利用客を慰めようと、スロバキア共和国の高校生による混声合唱団が、即席のコンサートを開いてくれたのが話題となっていました。
音楽の持つ素晴らしさです。特に、人の歌声のやさしさ、温かさが多くの人々の心を慰め、勇気づけたのでしょう。この数週間、朝、正門に立っていると、合唱コンクールの練習している歌声が欅(けやき)の梢を通って、聞こえてきました。それを聞いただけでも、夏の暑さをしばらく忘れ、すがすがしい気持ちになります。
聖書では、歌声は、神様を褒めたたえる、人ができる唯一のそして最高の行いです。人に声を与えて下さった神様の素晴らしい計らいだと思います。しかし、1節の後半「主を賛美することは正しい人にふさわしい。」とあります。私たちは、毎朝礼拝で讃美歌を歌います。歌う私は、本当に正しい人でしょうか。心に手を当てれば、私は決して神様の正義を全うする人間ではないことがわかります。
先日、学校に近くのコンビニで買物をしました。私は、レジの列の三番目でした。先頭は50代の男性。次は、小学校の3,4年位の男の子。はじめの男性が、支払いを終えて、小学生の男の子が買ったものをレジの女性に示し、手の中で握っていたお金を払いました。「10円足りません」とレジの人は言いました。男の子は、びっくりして固まってしまいました。男の子は、余計なお金を持っていませんでした。しばらく沈黙の時間が過ぎました。ちょうどコンビニから出ようとしていた先程の男性が、戻ってきて「ぼく(小学生のこと)、10円あげるよ」といって、財布から10円玉を一つ小学生に渡しました。レジが無事に終わって安堵している小学生に、私は声をかけました。「よかったね。あのおじちゃんに、ありがとうを言おうね」。彼は、道を歩き始めた男性に走り寄り、頭をペコンと下げて「ありがとうございました」と言いました。
私たちは神様のレジの前では、お支払する十分な金銭を持ち合わせていません。イエス・キリストが私たちの罪の支払いとして、十字架で私たちの代わりに死んでくださった事により、私たちは神様の前で義とされるのです。赦され正しいものとされた喜びがあるがこそ、神様ありがとうございますと、感謝し賛美の歌を歌うことができるのです。
今日の合唱コンクールのためにクラスでは、一丸となり、多くの時間を使って練習してきました。その成果の歌声を神様に感謝の意味を込めて、このホールの天井高くまで、響かせましょう。