
校長ブログ
1年生フェロシップ 開会礼拝 7月18日(木)

伊豆天城山荘チャペル
讃美歌 310
暗誦聖句 交読文41 マタイ5章3節〜10節
聖書 ローマの信徒への手紙 8章28節
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
讃美歌 90
祈り
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河井先生は、21歳の時アメリカに渡りました。ブリンマー大学で学んでいたとき、ニューヨーク州ジョージア湖畔で開かれたYWCA協議会に招かれました。そのとき、河井先生は、アメリカ中からこうして女子学生たちが、愛と相互扶助の精神をもっていっしょに集まってきているのを見て、この精神を、どうか日本の女学生が持ってほしいと切に願いました。また、「世界がわたしの働き場」です、という女子大生の発言を聴き、「自分の狭い考えが広められ、わたしは日本人であるばかりかではなく、世界、すなわち神の世界にも属するものだということをさとり始めた。」と書いています。しかし、河井先生は一直線に国際的な視野を持つようになったのではありません。
私達は、苦しいとき、辛いとき、悲しいとき、もう一歩も前に進めないときがあります。河井先生も同様でした。でもそれは、神様がすべてを働かせて、あなたに良いものをお与えになろうとする前触れなのです。創立者の河井道先生の生涯について、今日の御言葉が真実であることを見てみましょう。
河井道先生のお父さん範康(のりやす)は、26代目伊勢神宮に仕える神官(平安時代まで遡る)でした。村長として人々に大変尊敬されていました。ところが、河井先生が幼い時、明治維新の新政府の改革によって父が失業します。更に不幸は重なります。お父さんに仕えていた使用人が事業に手を出して亡くなってしまったのです。保証人となったお父さんは、財産を失ってしまいます。父の失業と家がつぶれてしまったことは、河井一家に寂しさ、不安をもたらしました。お父さんが大好きであった河井先生はお父様の元気がなくなっていくのを見て悲しくなりました。河井家は父の誇りもあり、だれも知らない北海道に行くことになりました。「いっそ、誰も私たちを知らないところに行って、新しい気持ちで生活を始めたい」と考えました。でも、誰も私たちを知らない、ではなかったのです。神様は知っていました。実は、このことは神様の深いご計画だったのです。神様は苦境の中にあってもそれを生かし脱出する道をも備えて下さいます。
河井先生は8才で北海道の函館に渡ります。北海道に渡ったある日の午後、突然河井道先生の名前を呼ぶ人が現れます。中須治胤(なかすはるたね)といい、父のいとこでこの時キリスト教伝道者になっていました。
伯父さんの紹介で、あるミッションスクールの寮に入ります。そこで辛い思いをします。初めて家族から離れての生活です。英語の時間は、当てられると震えて泣き出してしまいます。そして、ある生徒の裁縫箱がなくなります。このことを問われて、河井先生は泣き出してしまいます。このことが、河井先生が盗んだのではないかと、疑われることになります。河井先生は、自分は何もしていないのでとても精神的に辛さを感じます。お母さんが迎えに来て、家に帰ることになります。そして、その学校を止めることになります。
しかし、河井先生はこのことを振り返ったときに、この学校での経験が無駄ではなかったと書いています。食前のお祈りも覚え、何曲か讃美歌も覚えました。このなかの一曲に「いざいざためらうことなかれ」があります。
後に、恵泉女学園を創立しようとしたとき、恩師の新渡戸稲造先生や周りの方から反対を受けたとき、込み上げてくる学園創立の思いを河井先生は、実行に移します。この時、この讃美歌が河井先生の思いに勇気と力を与えたのでした。
聖書は、無駄なことは一つもないと言っています。今日の聖書箇所です。
河井先生の教育を続けるために伯父さんは、今度は札幌でキリスト教主義の女子校を創りたいと考えていたミス・クララ・スミスというアメリカ人宣教師に逢わせます。この方が河井先生にとって決定的な人となりなります。ミス・クララ・スミスは、現北星学園創立者です。河井道先生が10才の時です。河井先生の暗い体験がここで明るい体験に変わっていきます。
学校で、ランプの受け棚を壊したという話があります。お父さんの病気のことを心配して、一人になりたかった河井先生は壁の上に取り付けられているランプの受け棚に座ろうと、それを壊してしまいます。初めて真剣な祈りを神様に捧げます。「わたしが壊しました。どうぞおゆるし下さい。」「スミス先生は、笑い出して、しかりませんでした。河井先生は、祈りが聞き入れられた初めての経験をします。それと同時にスミス先生の心の温かさを知りました。
スミス先生は、河井先生の内に秘めた良いものを既にご覧になって、その良いものを何とか引き出しだそうとお考えになっていました。
河井先生の机をスミス先生は側に置かせて授業をしました。そして、その時が来ます。英文朗読の時間「わたしがやればきっとスミス先生の通りにできる」と思ったのです。内側から声がします。「勇気を出せ!」その内なる声に押し出されて、河井先生は顔を真っ赤にして、はっきりと大きな声で英語を読みました。
河井先生の内気な性格が変えられた瞬間です。スミス先生は、手をたたいて大喜びをしました。そして、河井先生の机を元の場所に戻したのです。
「ほめられるのは、うれしいこと」だと分かったのでした。自分の存在が認められた喜びです。生きる喜びを見つけたのでした。
河井先生は、はっきり神と人に愛されている経験を持ちました。そして、現札幌北一条教会で受洗します。河井道先生11才の時です。
また、このような話が残っています。恵泉女学園の創立の時お金がありませんでした。その時、台湾からきた小室輿(さかん)という弁護士が河井先生に、多額の寄付を申し出ました。河井先生の生涯の恩師新渡戸稲造と小室さんとは、大学時代に先生と学生の関係でした。鹿児島県出身の小室さんが貧乏学生であったとき、新渡戸稲造は時々、小室にドイツ語本の翻訳を依頼しては原稿料をあげていたのです。小室さんはその後台湾へ渡って弁護士として成功します。学生時代に新渡戸から受けた恩に報いたいと寄付を申し出たところ、新渡戸稲造は、「河井道と申す奇妙な女性が一文もないのに大胆に学校を創立した。もし差し支えなければ、そのお金を恵泉女学園に寄付していただきたい。そうしていただければ私はこの上なく嬉しい」と言うのでした。新渡戸稲造は小室に子供が大きくなったら恵泉に入れるようにと伝えます。長女、栄子はその言葉どおり十六歳で台湾を出て恵泉で学ぶことになります。そして彼女の妹は、河井先生にあやかって道子と名づけられた、というのです。神様の恵みのご計画の奇しさです。
河井家が北海道に渡らなかったら、このような出来事はありませんでした。そして、恵泉女学園もなかったはずです。
恵泉に入学したあなたたちにも神様からのご計画が一人一人にあります。今日のみ言葉を心に抱き、そのご計画を実現できるようにが、様々な困難があっても主イエス様と歩んでいきましょう。