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校長ブログ

4年生オリエンテーションキャンプ 開会礼拝

2015/04/27
昼食時のパインパークからの富士山

昼食時のパインパークからの富士山

讃美歌 Ⅱ157 この世のなみかぜさわぎ
聖書 1コリ 9:24〜27
賛美 永遠にあなたと
お話 難し、赦し、志し
讃美歌 171 大波のように
祈り

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 今年の4年生、高校1年生の学年のテーマは克己心です。克己心とは、自分に勝つ心、自制心です。自制心とは、自分自身の感情や欲望などをうまく抑えたりコントロールしたりする気持ちや精神力のこと、と辞書には書かれています。新しい学年の歩みが旧態依然ではなく、一歩進んでさらに向上しようという意味に、私は捉えました。
 クラブでも勉強でも中学時代にできなかったこと、課題と感じていたことがあったでしょう。それを乗り越えようとする気持ち、心の構え方を考えようというのも、このオリエンテーションの目的の一つです。思い浮かべる言葉は、努力、勤勉、忍耐、不屈、不退転とたくさんありますが、それでは、どうやったら自分を乗り越えることのできる、そのような強い心が生まれるのでしょうか。どのようにしたら、それが実行できるのでしょうか。根性とか気合いとかという単語が連想できますが、そうなのでしょうか。
 創立者の河井道先生の場合は、どうだったのでしょうか。道先生の場合を二つ例をとって考えてみましょう。
 一つは、8歳で、父親の失職で見知らぬ北海道函館に行ったことです。明治維新の国の大改革で20数代続いていた伊勢神宮の神官の仕事がなくなり、深い失意の父親は、家族とともに自分たちの築き上げてきた根を断ち切ります。
 道先生は、偶然に函館でキリスト教の伝道師になっていた伯父(中須治胤 なかすはるたね)に出会います。
 この伯父の影響で道先生のお父さんは、心を開き聖書を読み、信仰を持つようになります。道先生も伯父の紹介でキリスト教のミッションスクールに入学し、寮生活をしますが、馴染むことができずある事件をきっかけにその学校を退学することになります。
 しかし、その経験は無駄ではありませんでした。道先生は、お祈りを覚え、讃美歌を歌うことを覚えたからです。祈りと賛美は河井先生の心を支える生涯の力のよりどころとなります。特に「いざ!いざ!すこしもためらわず!(Away! Away!)」という讃美歌は、河井先生の大きな決断をするときの応援歌のようです。「難(かた)し」は、逃避や挫折や失敗の言い訳ではありません、そうではなく試練や困難は、次の上の舞台に上がる階段なのです。困難なくして進歩なし、です。
 伯父さんの更なる勧めで、道先生はサラ・クララ・スミスの建てようとしていた全寮制のミッションスクールの一回生になり、函館から札幌に移ります。
 そして、ランプ事件が起きます。病気になった父のことを一人で静かに考えようとランプの受け棚に腰をかけようとし、壊してしまいます。スミス先生に叱られることを恐れて、はじめて本当のお祈りを捧げます。泣き出す道先生を前に、スミス先生は、注意をしただけで笑って赦してくれたのです。道先生は、祈りがきかれたことと、赦されたことの喜びを驚きとともに感じます。「赦し」は、人を変えます。赦しは、否定された自分が肯定され再び生き返る経験を与えます。英詩朗読の授業で、道先生は自分の殻を打ち破ることができました。「何かが私に勇気を出せとささやいた。」のです。この内なる変化は、スミス先生の赦しから生まれたものです。自分の存在が肯定されると、人は力を得ます。道先生は、信仰的歩みに導かれ、内気で多感な少女は、豊かな思いやりのある積極的な女性へと変えられていきます。道先生は、11歳で札幌の教会で受洗します。
 もう一つは、恵泉女学園を創立したことです。道先生は、「わたし自身の学校を建てたいという以前からの夢がますますはっきりと育ってきて」、「今、心の内に強い励ましの声を感じ」、1926年49歳のとき北アメリカ、ヨーロッパに渡り、アメリカ、デンマーク、イギリス等の農業、教育を視察し、ジュネーブの新渡戸稲造を訪ねて学校創立の決意を語ります。しかし、新渡戸先生は、学校創立の難しさを考えて創設に否定的な考え方を述べます。
 するとあの讃美歌が心に浮かんできます。「いざ!いざ!すこしもためらわず!」。そして、1929年、52歳の決断です。女性参政権さえなかった時代に、平和をつくる自立した女性を育てる学校というビジョンは、風車に戦いを挑んだドンキホーテのようです。しかし、神様から与えられた使命は、人のうちに揺るぎのない内なる声となります。何人もそれを阻止することはできないのです。心の内の強い「志し」は、神様からの岩をも砕く力です。 克己心とは、人生の荒波を経験して初めて、現れるものです。平穏無事な生活は、克己心を必要としません。目の前に、困難な状況が横たわったとき、感謝しましょう。それは、神様からの贈り物だからです。そのとき、初めて克己心が起こされるのです。
 そのとき、人をそうさせるのは、神の赦す愛です。それは、聖書の言葉であり、讃美歌の歌になって、人を強く支えてくれるのです。
 神様は、試練と赦しを通してあなたの志しを洗練していきます。それは、あなたに与えられた、あなたしかできない神様の計画、あなたに与えられた志しの意味と意図を知るためです。
 それは、雄大な神のご計画です。使徒パウロは、フィリピ2章13節にこのように書いています。
「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」
 この自覚を経て初めて、パウロから今回の御言葉が生まれるのです。
コリントの信徒への手紙一、9章24節から27節。
:24 あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。
:25 競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。
:26 だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。
:27 むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。