校長ブログ
第71回高等学校卒業式
2018年度 3月14日(木) 第71回高等学校卒業式 式の言葉
賛美歌 320
聖書 イザヤ書40章28節から31節
:28 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。
:29 疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
:30 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
:31 主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。
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卒業生の皆様、御卒業おめでとうございます。
保護者の皆様、お嬢様のご卒業を心からお祝いいたします。
また、多くのご来賓の方々、卒業する180名の恵泉生のご証人となってくださり感謝いたします。
先ほど恵泉会会長の田村先生に読んでいただいた聖書の箇所は、今年最後の暗唱聖句の箇所でした。暗唱聖句は、文語体でしたが新共同訳を読むと一層理解が深まります。
式次第の1節前27節には、こう書かれています。
ヤコブよ、なぜ言うのか
イスラエルよ、なぜ断言するのか
わたしの道は主に隠されている、と
わたしの裁きは神に忘れられた、と。
イスラエルの民が捕囚として、遠くバビロニアの異国の土地にあって自分たちの境遇を神に嘆きます。財産や社会的な地位を奪われ、生活の基盤さえ失って、途方に暮れているイスラエルの民。自分たちの力では脱出の出口さえも見つけられず、苦しみや悲しみに覆われている民に、預言者イザヤは語ります。
私たちの信じる神は、どのような神か知っているのか。私たちの神は、28節(式次第では2行目から)に簡潔明瞭に述べられています。
「主は、とこしえにいます神」、すなわち、永遠の神。
「地の果てに及ぶすべてのものの造り主」、すなわち、遍在の神であり、創造主である神。
「倦(う)むことなく、疲れることなく」、すなわち、全能の神。
「その英知は究(きわ)めがたい」、すなわち全知の神である、と。
だから、私たちの神は、決して疲れたり弱ったりしないお方である。そればかりではなく、疲れたもの、弱ったものには、力を与えてくださる神である。若者も疲れ、勇士もつまずき倒れる時がある。しかし、私たちの神、主に望みを置く者である私達は、新たな力を得る、と書いてあります。この力という言葉は、ヘブル語で「コアック」と言い、「創り出す力、創造する力」という意味を持っているそうです。日本語では、「新たな力」と訳されているのですね。
何年か前にオーストラリアのアネズリーカレッジと行なわれていた夏の短期ホームステイプログラムを引率した事があります。ボトリルさんという家庭にホームステイをしました。ある日、ボトリルとマレー川というオーストラリアで一番の長さを誇る川をカヌーで上った事がありました。英語のわからない日本人と日本語のわからないオーストラリア人が一泊二日でキャンプに行ったのです。
川の流れに逆らって進む数時間のカヌーイングは、死ぬ思いでした。それでもカヌーの漕ぎ方にも慣れて、余裕が出て周囲の景色がやっと見られる頃、両脇が断崖絶壁な箇所がありました。雄大な渓谷に見とれていると、ボトリルが上空を指差して「イーグル」、「ホーク」と叫びました。翼を大きく拡げた鷲と鷹が私たちの頭上遥か上空を滑空していました。米粒ほどの小さな姿でしたが、羽を羽ばたいている様子はなく、翼を大きく広げて浮かんでいると言った様子でした。
オーストラリアは冬でしたが川面が暖められて、大きな上昇気流が発生していたのです。鷲は、羽ばたく事なく、あんなに優雅に空高く飛行出来るということを知り、この聖書の箇所が頭に浮かびました。31節(最後から2行目)「わしのように翼を張って上る」それが神に信頼を置く姿だということを知ったのです。
卒業生の皆さんは、6年前の入学式を覚えていますか?
賛美歌90番が歌われ、「あなた方が私を選んだのではない。私(イエス様)があなたがたを選んだのです。」という聖書箇所が拝読されました。あなた方は、恵泉女学園の主イエス・キリストによって恵泉に招かれたのです、というお話があったかと思います。おそらく、そのことを現実に自分自身の問題と受け止めていた人は、その時は多くはなかったと思います。
恵泉での6年間、神様から選ばれた私は、一体どこへ行くのか、そのような大切な問題について、夏の修養会は、正面から見事にそれを据えました。 修養会のテーマは「ベクトル」。数学用語が修養会のテーマになったのは、恵泉の歴史で初めてでしょう。私は、理系の学校になったと思わず感動してしまいました。
修養会のしおりに修養会委員長は、修養会のテーマをこのように書いています。
「ベクトル」と聞くと数学を思い浮かべる人も多いと思いますが、「ベクトル」には、「意識を向けたり、進もうとしたりする方向」という意味があります。始点があり、その向きと大きさによって量が決まる「ベクトル」。今回の修養会では、「始点」を現在の自分や自分の原点、「向き」をこれから進む方向、「大きさ」を視野と捉えたいと思います。
礼拝を捧げ、先生方のお話を聞き、7つのテーマでグループディスカッションが行われました。二日目の夜、キャンドル・サービスに続いて、自分の内面を見つめる黙想の時間を持ちました。最終日クラス全体で行われた感想会で一人一人が修養会で得た事を共有しました。感想会では、「みんなが温かいから、普段言えないことが言えて、自分は恵まれている、と思いました」、「こんなことで悩んでいたのは、自分だけかと思っていたけれど、友達も苦しんでいることを知りました」「親にまだ伝えていない自分の夢を勇気を持って伝えたい」。
一つ一つのプログラムがテーマ「ベクトル」として、あなた方の研ぎ澄まされた感性に、方向性を与えてくれたと感じました。
ベクトルにも足し算があります。2つのベクトルの和は、2つのベクトルの始点をそろえたときにできる平行四辺形の対角線の長さとその方向と、定義されます。
あなた方のベクトルに、神様のベクトルが働くと、つまり足し合わされると、その方向は、上を向きます。そして、長さはあなた自身のベクトルの大きさよりも長くなります。あなたの努力と神の恵みの和がこれからのあなたの目指す方向を決めるのです。
神様からの力を加えられたあなたのベクトルは、まるで、神様の上昇気流を翼に受け、大空に舞い上がる鷲のようです。
今日の賛美歌302番にも同じようなことが歌われていることに気がつきましたか。賛美歌302番は、河井先生がよくお歌いになった賛美歌と聞いています。
「み神の風をば 帆にはらみて、
今日しもわが身 いでゆくなり、
さからう風にも おおなみにも、
みたすけ仰ぎて いとやすけく。」
あなたは、エンジンを持たない小舟です。これからまさに恵泉という母なる港を離れて大海に出航して行きます。大波があり、逆らう風があり、太陽が見えない日々が続くときがあるでしょう。そのとき、あなたは、帆をもつ帆船(はんせん)でありなさい。そして大きな帆を一杯に広げなさい。そこに神様の風が吹きます。神様からの恵みの風を帆一杯に膨らませ海原を進んで行って下さい。
今日の聖書箇所イザヤ書40章31節をもう一度拝読します。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。」
鷲(わし)は翼を広げるだけで天空(てんくう)高く舞い上がることを知っています。自分の力のみを信じてバタバタと羽を羽ばたかせる小鳥ではなく、神様の恵である上昇気流に身を任せる鷲になろうではありませんか。どうぞ恵泉で学んだ神様に信頼する、という信仰の翼をしっかり張って、この学園から舞い上がって下さい。しかし、ただ舞い上がるのではなく、神の愛とイエス・キリストの十字架の犠牲に値するものとなる様に、舞い上がるのです。
恵泉女学園は、これからのあなたのベクトルの始点、始まりの点となります。改めて、ご卒業おめでとうございます。