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校長ブログ

高校礼拝 二重(ふたえ)の真理

2015/02/17
新芽が伸び始めたロウバイ

新芽が伸び始めたロウバイ

2015年2月17日 高校礼拝
讃美歌 121「この人を見よ」
暗誦聖句 交読文 41 マタイ5章 「幸いなるかな心の清き者、その人は神を見ん」を追加
聖書 ヨハネによる福音書18章38節後半から19章16節前半
お話 二重(ふたえ)の真理
祈り

  昨日の聖書箇所の最後18章38節の前半は、このような箇所です。18:38 ピラトは言った。「真理とは何か。」 真理とは何でしょうか。英語の“truth”で調べると欽定訳聖書では、222カ所出てきます。一番多いのは詩篇の40回、そして次に多いのはこのヨハネによる福音書の22回です。ちなみに、マタイ、マルコでそれぞれ3回ずつ、ルカでは8回です。このヨハネは、格段に多いのです。ヨハネはよほど真理について、伝えたかったのでしょう。辞書によると真理とは「確実な根拠によって本当であると認められたこと。ありのまま誤りなく認識されたことのあり方。」と書かれています。ヨハネ8章32節には、「あなたたちは、真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」とあります。真理とは、人間を自由にするもの、と聖書では言っています。ヨハネ14章6節では「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。」ともあります。また、直前の18:37には「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」とあります。すなわち、聖書では、真理は人間を自由にするイエスの教え、あるいはイエス自身のこととなります。それならば、真理は個人が一人ひとり受け取る者でなければなりません。
 ピラトの「真理とは何か」という問いに、イエス様は何もお答えになりません。この聖書が書かれることを知って、読者に真理とは何かを学び取ることを促しているように私には、思えてなりません。
 今日の聖書の登場人物は、ユダヤ人の祭司長とその下役の人々、ローマ帝国のユダヤ総督ポンティオ・ピラト、ローマの兵士たち、名前だけ登場のバラバ、そしてイエス様です。登場人物の役割をみていきましょう。
①   まず、イエス様を訴えたユダヤの祭司長たち
 彼らは、民衆に大きな影響を与えるイエス様を憎み何とか殺そうと策略を練ります。当時、ユダヤ人には死刑を執行する権限がありませんでした。イエス様を殺すためには、ローマの権限を利用するしかありません。憎しみが高じると人間は、狂ってしまいます。彼らも常識では考えられない狂い方をします。昨日の聖書の箇所18:28「人々は、イエスを(大祭司)カイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。」裁判が受け付けれるのは、日の出からだそうです。気分が高揚していたのでしょう。随分早くに総督官邸に到着しています。一番大きな狂気は、「自分たちの王は、神だけであることを否定した」ことです。
19:15ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。
 サムエル記上12:12「あなたたちの神、主があなたたちの王」であるにもかかわらず、そして祭司長たちは、理性を欠いて「大声で叫び」「絶叫」し、事の成り行きを感情に任せています。
18:40すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。
19:6「祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、『十字架につけろ。十字架につけろ』と叫んだ。」19:15「彼らは叫んだ。『殺せ。殺せ。十字架につけろ。』」
 大声で叫び猛(たけ)る、喚(わめ)き散らすは、どうみても正気の沙汰ではありません。一つの主義主張を喊声(かんせい:大勢で突撃するときなどに上げる叫び声)を上げて気負い立つやり方は、狂気以外の何ものでもありません。しかし、ここに、私は自分を見つけます。私は、喊声をあげて主義主張を行うことがあるからです。
②裁判とは、一番関係のなさそうなローマの兵隊たちは、どうでしょうか。
 人の命の重さを、滑稽さに変えてもて遊びました。自分たちは、何をしているかわからないままに、
19:2「兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、」
兵士たちは、イエス様に対し面白おかしく悪ふざけをします。悪ふざけなら労をいとわず、いばらで王冠を編み、紫色のローブを探し出してきます。イエス様を王様に仕立てたパロディを演じています。しかし、一歩物事の外にいて責任を取らないのです。ここでもローマの兵士たちに、私は自分を見いだします。私は、人を中傷する悪ふざけをしてしまいます。
③大切な決断を迫られたピラトは、どうでしょう。
 ピラトは、終始イエス様には罪が無いことを知り、死刑に定めることを願いませんでした。イエス様に威厳さえ感じています。
18:39「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。
19:4「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」
聖書の本文も、そのような記事を記しています。
19:12「そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。」
しかし、自分の信念を貫くことができず、ユダヤ人たちとの妥協を試みます。
18:39「ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」
ユダヤの慣習に従って、イエス様を釈放して、折り合いをつけようとします。
19:1「そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。」
むち打たれて傷ついたイエス様を群衆に見せ、ユダヤ人の同情を誘います。さらに、ピラトは精一杯自分の権限を持ち出します。
19:10「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」
それに対してイエス様は、「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」と答えられました。ピラトは、イエス様の釈放に努めますが、次のユダヤ人たちの強烈な脅しに屈してしまいます。
19:12「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」
 当時のローマ帝国での絶対的な権威者である皇帝ティベリウスの名を出されて、ピラトは怯(ひる)んでしまいます。自分の考えも思いも霧散(むさん)してしまいます。自分を守りたかったのです。自分が可愛かったのです。ユダヤ人たちを恐れ、
19:13「イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。」てしまうのです。そして、
19:14「ユダヤ人たちに、『見よ、あなたたちの王だ』」
と嘲笑的に言い放ち、このような惨めな男は、死刑には値しないと、ユダヤ人の憐れみさえを買おうとします。ピラトは、正しいことをしようとしたけれども、貫く勇気と決断力がなかったのです。ここにも、弱さを抱えた私がいます。
④名前だけしか出てきませんがバラバは、どうでしょうか。
 バラバは、強盗であったとあります。ルカ 23:19には「このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。」、また使徒言行録3:14には、「人殺しの男」と書かれています。大きな罪を犯し、この人物こそもっとも十字架の刑に値する人間ではなかったでしょうか。この男がイエス・キリストの代わりに無罪とされるのです。ルカ23:25「そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。」
 私は、強盗を働いたことも殺人を犯したこともありません。しかし、ルカ16:15で、イエス様はあざわらったファリサイ派の人々に、このように言われます。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。」
 人前で自分がいかに正しいと言い張っても、神は心を見られます。心を見られる神から見れば、私はバラバ以外の何者でもないことを自覚します。バラバは、私です。
 祭司長、兵隊、ピラト、バラバの中に自分を見つけます。このような自分は、いったいどのような真理を得ることができるのでしょうか。いったいどのような真理への道を歩むことができるのでしょうか。
 今日付け加わった暗誦聖句は「幸いなるかな心の清き者、その人は神を見ん」です。
これに従えば、人は誰も神を見ることはできません。
 聖書は、表面的な出来事の奥に神様のご計画を密かに入念に忍ばせていることがわかります。皮相的な事柄をひっくり返して、歴史を貫く真理を、物語の底に宿しています。
① ローマの兵隊たちがイエス様を嘲笑しました。いばらの冠をかぶらせ、紫色の衣を着させ、イエス様を王に仕立てました。しかし、十字架に付けられ、死んで葬られたイエス様は、三日後に復活され天に昇り、王として君臨しているのです。イエス様だけが、王にふさわしいお方です。イエス様の冠は茨でできていて、イエス様の王座は荒削りの十字架です。
②ピラトがイエス様を「敷石」という場所で、形だけの裁判の席に着かせました。この世の終わりの時、最後の審判において、イエス様は永遠の命を与える者と永遠の刑罰を与える者とを分ける裁判官になるのです。「敷石」に座ったイエス様が、最後の裁きを行うものとなるのです。
③無実であったイエス様に変わって、バラバが自由にされたという事実は、イエス様は、私を解放するために十字架につけられたことを意味し、イエス様がキリストであったことを証明します。
ユダヤの民が叫ぶ「十字架」こそ真理なのです。
④ピラトが19:5「見よ、この男だ」と軽蔑を込めて語った言葉があります。この言葉は、後に「完全な人」を表す言葉として用いられるようになります。ここにいる人こそ、真理を知り実践する人なのです。
 ドイツ人ボンヘッファーという人がいます。第二次世界大戦中にヒトラー暗殺計画に加わり処刑された、20世紀を代表するキリスト教神学者です。彼の書いた「主のよき力に守られて」ボンへッファー1日1章 村椿嘉信訳 新教出版社
4月7日にこのように書かれています。
 この人を見よ
 「この人を見よ。この人において、神とこの世界との和解が成立した。この世界は、破壊によってではなく和解によって克服されるのである。この世界の現実と対決し、この現実を克服するのは、われわれの理想や計画ではなく、また良心や責任や美徳でもなく、ただ神の愛だけである。この世に対する神の愛が、現実から離れてこの世から逃避している高尚な魂に向かうということはない。むしろ神の愛は、この世のもっとも激しい現実にまで到達し、この世に苦しみを負うのである。この世はイエス・キリストの体に激しく襲いかかるが、キリストは苦しめられながらもこの世の罪を許す。このようにして、和解が成し遂げられる。この人を見よ。(以下省略)」
 心に語りかける真理と歴史を貫く真理とがあります。