校長ブログ
牧師・教会関係者等懇談会 開会礼拝
讃美歌 122
聖書 コリントの信徒への手紙一 2章2節
なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。
説教 「十字架を伝える」
牧師先生や教会学校関係者の方々との懇談の時が今年も、ここ恵泉女学園中・高校でもたれることを神様に感謝いたします。
先日電車の中で隣に座った若者がタブレットで野球を見ている場面に遭遇し、思わずタブレットをのぞき込みました。ピッチャーマウンドに立ったピッチャーは、キャッチャーからの返球をグラブに入れた後、右手をぶらぶらさせながら投球のタイミングを待っているのです。すると、突然バッターが3人画面に現れて、バッターを選ぶ指示が出てきました。そこで、初めて、私はこれが野球ゲームであることを知りました。若者は、自分が選んだバッターになりきって、打席に立つのです。
1990年以降に生まれた若者をデジタルネイティブと呼ぶ言葉があります。生まれたときに、PC(パーソナルコンピュータ)やインターネットが空気や水のように存在していて、それを用いることに何ら抵抗感のない世代を言うのだそうです。アメリカでは1988年、日本では1992年に商用インターネットが始まり、急速な発展を遂げています。利用者は*27億4000万人(2013年)、前年より2億人以上の増加です。(*総務省情報通信白書より)
その特徴として、顕著な事柄は、
「現実の出会いとネットでの出会いを区別しない」
ということだそうです。「区別しない」というより「区別できない」のではないかと、私は思います。思考にも感性にもその境界線を引く事の難しさを思います。現実と虚構の境界線がないのです。
デジタルネイティブの第2の特徴は、「相手の年齢や所属・肩書にこだわらない」事だそうです。自分とPC・携帯・タブレットを介して繋がる蜘蛛の巣(ネットワーク)の向こうの世界では、「相手の属性」は必要のないことなのです。このことは、相手に対する想像力の欠如をもたらすのではないかと思います。人に温かい血が流れ、人が柔らかな皮膚を持っていることなど関係なく、そのようなものにはこだわらない自分本位の世界をつくり、その中で完結してしまっているような危惧も持ちます。
1990年生まれは今年で24歳。今の中高生は確実に、この世代です。
福音は、地位のある人、富のある人、能力のある人、善良な人のものではなく、社会的に認められていない人、貧しい人、この世の能力と呼ばれるものに欠けている人、自分の善良さの限界に気の付いた人たちに語られるものです。現実と虚構の世界がボーダーレスになり、さらに相手に対する想像力欠如の自覚のない若者が多数を占めていくなら、福音をどのように伝えていったらよいのでしょうか。このようなことを踏まえて、「学校ができること、教会ができること」を考え、共有したいと思います。
今日の聖書箇所は、パウロはイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、知るまいと決心した、という御言葉です。
パウロは、福音を伝えることに、優れた言葉や知恵を用いず(1節)、ひたすら、イエス・キリストの十字架だけを知ろうと決意(2節)します。自分の弱さ、危うさ、もろさを知った故に(3節)、神からの霊と力により頼むこと(3節)に、宣教の確信(4節)を得たのです。
私を愛し、私のために十字架で死なれた神の御子は、パウロのみならずキリスト教信仰者の原点です。十字架は、疑いも迷いもないリアリティを持ってパウロに臨みます。キリスト教徒を迫害していた頃のサウルと呼ばれていたパウロが、ダマスコへの旅の途上、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」、「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」というイエスの声を聞きます。町に入り、パウロは「この人(イエス)こそ神の御子である」ことを伝える使命を託されます。(使徒言行録9章)
十字架は「衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安で」あったパウロを強め宣教の道へ押し出しました。 私は、何者でもなく、何も持っていなく、何もできないのです。私にとっての恵みは、そのような私を愛して下さった方が、今も現実としてここにおられることを聖書が示していることです。十字架にこそ、私の実存があるのです。これは、キリスト教学校にも教会にもいえることです。
礼拝で賛美しました122番は、イギリスの古い歌からの讃美歌です。この2節は、いつも歌うたびに心が震えます。
その頭(こうべ)には、かむりもなく
その衣(ころも)には、かざりもなく、
まずしき低(ひく)い、 大工(たくみ)として、
主は若き日を、 過ぎたまえり
私ができるのは、神の子であるこのイエスが私のために十字架について下さったと、信じるだけです。ただただイエス・キリストの十字架を見上げる、そこに自分の存在と拠り所があるのです。福音は、十字架と私を通してしか流れていかないのです。弱い私の拠り所である十字架に、どんな時にもパウロのように焦点を会わせたい、と思うのです。