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新年礼拝

2014/01/07

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陽だまりに咲くスミレ

讃美歌 164
聖書 出エジプト16:17-32
讃美歌 546
祈り


あけましておめでとうございます。
 新しい年を迎えてどのように過ごしましたか。年が改まってどのようなことを考えましたか。お年玉を貰って、後は普段のように何気なく過ごしてはいませんか。
 神様は連続した時の流れに、区切りをお付けになりました。光と闇で一日を区切り、天地創造の業で一週間を区切りました。月の満ち欠けで一月を区切り、春夏秋冬という四季で一年を区切りました。特に一年間の区切りは大切です。この時期に私たちが心がけることは、一体どんなことなのでしょうか。
 私は、一番に心がけねばならないことは、自分の出発点を確認することだと思います。自分の始まりはどこだったのかを確認することです。出発点を確認すると今自分がいる場所が分かり、自分が正しい方向に進んでいるのか、間違った方向に進んでいるのかがはっきりします。正しい方向に進んでいるならば、安心してそのまま進めば良いのです。間違った方向に進んでいるのならば、進むべき方向を修正しなくはいけません。修正が効かないときは、思い切って初めの地点に戻ればよいのです。私たちの生き方には、残念ながら自分のいる場所が瞬時に分かるGPS(Global Positioning System 全地球測位システム)は使えないのです。一人で静かに過去を振り返えるという作業をしなくてはならないのです。面倒で辛い作業になることもあるでしょう。
 では、初めの地点とはどこでしょうか。人によってそれは異なるでしょうが、神様は、一人一人に生きていく目的を与えておられます(フィリピの信徒への手紙2章13節から15節)。その目的にあなたが気付いたときです。偉大な人の伝記を読んで、この人のようになりたいと思った時かもしれません。恵泉に入学した時の希望にあふれていた時の気持ちなのかもしれません。このような勉強したいと強く感じた時かもしれません。社会に出てこのような仕事をしてみたいと思った時かもしれません。そのことを思うと心がキュッと引き締まる、そのようなときです。年の初めにこの区切りとその意味を見失わないようにしたいです。
さて、今日の聖書箇所から学びましょう。
乳と蜜の流れる豊かなカナンの地を目指した出エジプトの旅は40年かかったといわれます。神様に助けられてもすぐにそのことを忘れてしまうのは、今の私たちも昔のイスラエルの民も同じようです。荒野を旅をするのですから、厳しく過酷な旅です。イスラエルの民は彼らの記念となる恵みの出発点「エジプトから逃れられた」ということを直ぐに忘れてしまいます。旅が困難になるとすぐに、エジプトから導いたモーセと神様に文句を言うのです。
エジプトを発って一ヶ月後、シンの荒れ野に入りました。このときには、エジプトでの苦労を忘れて「エジプトでは肉もパンもたくさん食べることができたのに、ここで飢え死にさせるつもりか」と民はまた不平を言い出します。これの繰り返しで40年もかかってしまったのです。
神様は忍耐強く、人びとの不平不満に応えます。神様は、「あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたのたちの神、主であることをしるようになる」とモーセに語ります。
夕方になるとウズラが飛んできました。これが肉です。朝になると宿営地に露が降り、この露は蒸発するとその後に地表を覆って薄くて壊れやすいものが霜のように残っていました。これがパンの替わりとなるものでした。初めての経験ですから彼らには名前が分かりません。イスラエルの人はこれにマナと言う名前をつけました。英語のWhat is it?に相当するマン・フーがマナになったと言います。初めて見るものですから注意深く観察され聖書に記録されていて面白いです。マナの特徴は、日持ちせず直ぐに虫がついて臭くなることです。
今朝の聖書日課から学び取ることは3つあります。
一つ目は、神様は私たちに必要なものは必ず与えて下さるということです。水も食料も必要ならば、与えて下さいます。それは、そのことを通して神様に感謝するためです。神様の恵みを覚えて感謝することです。マタイ6章11節の主の祈りに「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」とあります。偶然に与えられたものではなく、祈りに応えて下さった結果なのです。食の糧の他に、霊の糧も備えて下さいます。
二つ目は、人はそれぞれ能力の違いはありますが、得られたものは等しく分けなさい、という事です。マナを集めるとき、多く集めるものも、少なく集めるものもいました。それにもかかわらず余ることなく、足りないこともなかったとあります。コリントの信徒の手紙Ⅱ8章11節から15節にこのように書かれています。
:11 だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。:12 進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。:13 他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。:14 あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。:15 「多く集めた者も、余ることはなく、/わずかしか集めなかった者も、/不足することはなかった」と書いてあるとおりです。
パウロは、この箇所を引用して、今日できることは今日一人ひとりが一生懸命にしなさい、と勧めています。そしてその結果として皆がすすんで行った結果は、皆で均等に分け与えなさい、と教えています。神様が荒野の地でマナを通して、イスラエルの民にこのように教えたからです。その意味では、神様からみた人の能力は結果的には同じなのです。
三つ目は、「天に富を積みなさい」という事です。食べるものと蓄えるものとは異なるという事です。翌朝まで残したマナには、虫がわいて臭くなったと書かれています。集めたマナを皆で分け与えることなく、自分だけに残しておいた人たちがいたのです。しかし、その人の計画は徒労に終りました。その人の関心は、食糧を蓄えることでした。マナをたくさん集めれば、生活が豊かになると考えたのです。無駄に腐ってしまったマナから、マタイによる福音書の6章19節からの話を思い浮かべます。マタイ6章9節~21節です。
:19 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。:20 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。:21 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
マナは、食べるものであって蓄えるものではなかったのです。食べ物に象徴されるこの世の富を蓄えようとそれに心を置いてはいけないのです。それは、虫が食い、さびが付き、人に盗まれます。私たちの心は朽ちることなく蓄えられるものに向けましょう。神様とそれに属するものは、朽ちないのです。