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校長ブログ

2学期始業礼拝

2018/08/30

天城山荘の朝

2018年8月28日     2学期始業礼拝

讃美歌 352
聖書 ルカ 18章9節から17節
お話 わたしを憐れんでください 
祈り

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 こうして元気なみなさんと再びお会いすることができとても嬉しいです。今年の夏は、全国的に熱中症による被害が例年よりかなり多いため、クラブ日の活動が大変気になっていました。夏休み中、日直の先生は、午前11時、12時、午後1時、2時とクラブ活動の行われている場所で熱中症指数を測定しました。熱中症指数が31を超えるとすぐにその場でのクラブ活動が中止となりました。大体育館は、2階のグレイスホールに冷房を効かせ、冷気を大型と小型の扇風機6台を使って送り込みました。そのため、熱中症指数は30を超えることなく、適宜の水分補給と休憩でなんとかクラブ活動ができました。また、台風の影響で合宿の行程に多少変動が起こりましたがこれも交通機関をやり繰りして無事終了しました。海外での国際交流プログラムであるオーストラリアのモートンベイカレッジとタイのタークリー・プラチャサン・スクールとの学校間交流、国内でのアメリカ女子大学生と英語を学ぶエンパワーメント・プログラムもそれぞれ素晴らしい異文化の中での親しい交わりができました。神様の守りがあったことを感謝します。また、多くの準備を含めて顧問の先生や日直の先生、引率の先生の働きに本当に感謝です。
 みなさん一人ひとりにとって、夏休みはどうだったでしょうか。いろいろな体験を積んで、一回り大きく成長したように見えます。2年生は、第一グループが今日(8月28日)より清里キープ自然学校宿泊行事に出発しました。6年生の恵泉最後の宿泊行事である修養会も明日(29日)から天城山荘で行われます。来月には、5年生が京都・奈良方面に見学旅行に出かけます。その週に合唱コンクールがあり、11月には待ちに待った恵泉デーが行われます。その準備も着々と進んでいます。  
 このように2学期は、大変多くの行事におおいそがしです。立ち止まって、このような行事が置かれている理由は何かと考えてみましょう。
 一つ目は、本物体験です。体験を通して本物に触れることができるからです。本物に触れなければ、偽物がわかりません。本物と偽物を見分ける人になってもらいたいのです。あえて偽物を知る必要はありません。偽物と本物との違いには、本物を知ることによって自ずと分かるからです。また、本物の背景には、私たちの存在を遥かに超えた神様の息づかいを感じることもあります。人間に与えられた五感を駆使して本物を知って下さい。若いときに、自分の記憶として残しておけるのは、この五感をどのように用いるかです。多面的に知ることは、物事の本質をとらえる意味でも大切なことです。
 二つ目は、学びの拡大です。体験を伴う行事は普段の学校の授業を受ける励みになるからです。学びは、椅子と机と黒板の世界だけではないのです。外に出ると、到るところに面白いこと、不思議なこと、興味を感じる事柄が転がっています。それに目を向けると、学びの広さに気が付きます。学びの広さ深さ奥行きに気がつきます。そしてそれが、教室での学びに戻ってくるのです。
 三つ目は、協働のトレーニングです。行事は友達と一緒に同じ時間、同じ場所を共有できるからです。9月には合唱コンクールが1年から4年にありますから、それを経験した2年から6年までの人は、よく理解できるでしょう。自由曲を決めるときなど、クラスの中で様々な意見があったでしょう。練習に熱心でない人もいるなかで練習することには苦労があります。良いときだけではありません。そうでないときこそ、心から話し合いの時を持って下さい。この時間、この場所には、あなたとその人しかいないのです。今日はうまくいかなくとも、明日はうまくいくかもしれません。
 今日の聖書の前半の箇所を見てみましょう。
 9節「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された」とあります。
 イエス様のたとえには、当時の上流階級であったファリサイ派の人と罪人の筆頭と言われていた徴税人が登場します。ファリサイ派の人は、心の中で「わたしはほかの人たちのようではありません。わたしは奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではありません」と神様に祈ります。これは、祈りではなく、うぬぼれです。自己満足です。「わたしはこの徴税人のような者でもありません」これも祈りではなく、自分より下の人を見下している態度です。祈りにこのような形で他者を入れてはいけないのです。その挙げ句、ファリサイ派の人は「週に二回断食をし、全収入の十分の一を捧げています」と自分の行いの外見上の正しさを神様に主張するのです。
 一方徴税人は、宮から遠くたち、天を見上げることなく、悲しさに胸を打ちたたいていました。徴税人が見ていたものは、自分の心の底でした。その結果、「私を憐れんでください」としか言えなかったのです。今日の讃美歌の2節に「いのちを あたうる 主よ、とどまりて われらのこころを とこ宮となし」とあります。徴税人の告白は、自分の心に「神様のおられる変わることのない宮殿」をもたらしたのです。
 イエス様のこのたとえは、ファリサイ派の人に投げかけられた言葉ではありません。今日この聖書を読む一人ひとりの「わたし」に投げられた言葉です。他人との比較で、自分の正義を語ることは、如何に的外れの事であるか。比較するならば神様と比較してみてください。他人との比較ではなく、神様の正しさ、きよさと比較してみると、あまりの違いに「自分を憐れんでください」としか、言えないのです。
 学校生活の中でもこのようなへりくだり、謙遜さを学びたいですね。