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校長ブログ

1-5年礼拝 「神様の回文」

2015/01/07
欅の根元に咲くバルボコジューム

欅の根元に咲くバルボコジューム

 

讃美歌 30
暗誦聖句 交読文41 マタイ伝5章
聖書 ヨハネ7章53節から8章11節
お話 神様の回文
祈り
黙祷
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明けましておめでとうございます。
 2015年が始まりました。数字を見ると私は直ぐに素因数分解をしたくなります。2015を素因数分解すると2015=5×13×31となります。5を13と31の真ん中にもってくると13×5×31となり、右から読んでも左から読んでも同じ数字の列です。文で言うと回文となります。有名な回文は「たけやぶやけた」でしょうか。13と31を入れ替えても同じことがいえます。おもしろいですね。さらに、2015を2進数で表すと11111011111となります。これも回文で、11桁の真ん中が0であとのすべてが1となって、美しい並びになっています。始めが終わりであり、終わりが始めなのです。
当然ですが2015年という年は今年1年限りです。1年ごとに数字が異なると言うことは、私たちの歩みもユニーク(他にない)な歩みがあるのです。
 今年初めに読んだ聖書の箇所は、昨年からの続きです。この箇所は、イエス・キリストの伝える福音を見事に表した出来事を伝えています。聖書はイエス・キリストは、真理であると書かれています。ヨハネによる福音書14:6には、
「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。』」とあります。この真理とは、何でしょうか。今日の聖書を見てみましょう。

 朝早くイエス様が神殿の境内で人々に教えていると、律法学者とファリサイ派の人々が姦通の現場で捕らえられた女性を連れてきました。姦通とは、社会的、道徳的に容認されない行為です。旧約聖書のレビ記20:10にはこのように書かれています。
「姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。」
律法に詳しい律法学者とファリサイ派の人は、このように言い放ちます。
「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。」(5節前半)。
 女性の行いは、モーセの律法では罪であり死に値するものでした。これは、律法学者やファリサイ派の人々にとっては、イエス様を罠(わな)にはめる絶好の機会でした。石打ちの刑に同意すれば、イエス様が神の愛を説いていた事と矛盾が生じます。反対すればユダヤ社会の法にイエス様は反することになります。どちらにしてもイエス様を陥(おとしい)れる理由ができるからです。彼らはさらに言います。
「ところで、あなたはどうお考えになりますか。」(5節後半)

 イエス様は彼らの言葉が聞こえなかったかのように、身をかがめて指で地面に何か書いておられました。彼らは、「あなたはどうお考えになりますか。」と執拗(しつよう)に問い続けます。イエス様の次の一言で、問われる立場が一瞬で逆転します。イエス様がこのように口火をきられたからです。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(7節)
 イエス様はモーセの律法に従って石打ちの刑にしなさい、と言うのです。ただし、条件が付きました。「罪を犯したことのない者」が最初に石を投げなさい、という条件です。
 この出来事がもし、今の日本で起きていたらどうでしょうか。周りにいた人々は、一斉(いっせい)に石を手にしたかもしれません。石を投げること自体は躊躇(ちゅうちょ)しても、だれも自分に罪があるとは、多くの日本人は思わないでしょうから。
 しかし、ユダヤの人々は罪の問題には敏感です。神様と自分との関係において、このことは深刻な問題だからです。神様に対して誠実であればあるほど、避けては通ることのできないことだからです。
 例えば先ほどのレビ記には、人の罪のためのいけにえの記述が細部にわたり述べられています。神様がいけにえを捧げる者に要求していることは、罪の明確な自覚とその保障、すなわち、贖(あがな)いです。ユダヤ人は、罪に対するはっきりした自覚の中で社会生活を築き上げてきました。
 イエス様の言葉は、どのような結果をこの場にもたらしたでしょうか。
「これを聞いた者は、年長者から始まって」(9節)そこから立ち去っていきましたとあります。人生経験の長い者ほど自分の罪の深さを自分のこととして経験的に知っています。彼らは、周囲の人々に左右されることなく自分と神様との関係の中で、自分は罪人であり、決して女性に石を投げる資格を持ち合わせていない、と改めて悟ったのではないでしょうか。
「一人また一人と、立ち去ってしまい」(9節)という記述は、うなだれながら去っていく人々の心模様が良く伝わります。彼らは神様の前で、自分が決して胸を張れる者ではないことを知ったのです。そして「イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」と書かれています。人のいなくなった神殿の境内で残されたのは、二人だけになってしまいました。この問題は、他人が意見するような問題ではなく、神と人とが一対一の関係において、対処されるべき問題なのです。
 イエス様を告発しようとしていた律法学者もファリサイ派の人々も姿を消しました。彼らも自分自身の罪を知るが故に、イエス様の言葉に従ったのでしょうか。それともイエス様に対する怒りのおさまらない気持ちを抱えながら、渋々神殿を後にしたのでしょうか。いずれにせよ、石打ちは行われなかったのです。女性は、死を免(まぬが)れたのです。女性は、もう一度生きることが赦されたのです!
 イエス様は長い間いったい地面に何を書いておられたのでしょうか。私は、モーセがイスラエルの民にお与えになった十戒(じっかい)を書いておられたのではないかと思います。十戒は、神様がシナイ山で、二枚の石板にご自身の指で刻んだ契約の言葉です。(出エジプト記31:18)イエス様は、その十戒をご自身の指で神殿の境内の地面に書いておられたのではないかと想像するのです。
 十戒とは、
1あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
2あなたはいかなる像も造ってはならない。
3あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
4安息日を心に留め、これを聖別せよ。
5あなたの父母を敬え。
6殺してはならない。
7姦淫してはならない。
8盗んではならない。
9隣人に関して偽証してはならない。
10隣人の家を欲してはならない。
です。(出エジプト記20:3〜17)
 イエス様は、これらすべてを守ることのできた者だけが、女に石を投げよ、と敢えて沈黙の時間をおつくりになったのではないでしょうか。無言の言葉は、語る言葉よりも説得力があります。余談ですが、今朝の讃美歌30番は、メンデルゾーン作曲の無言歌集からとったものです。現曲はピアノ曲です。言葉の無い歌という表現に、言い表せない芸術性を感じてしまいます。
 今日のお話をまとめましょう。
 第一に、真理は人を罪と死の法より解放します。ヨハネの手紙1:17には、このような御言葉があります。
「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」
 二人だけになったのを確認して、イエス様は、身を起こして「あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪にさだめなかったのかと。」と女性に語ります。女性は、答えます、「主よ、だれも」と。この言葉は、この出来事を導いたイエス様を主と告白し、自分の身に起こった不思議な状況に、戸惑いながら現実を確かめている言葉のように聞こえます。イエス様の憐れみと恵みの言葉が彼女に投げかけられます。「わたしもあなたを罪に定めない。」女性の罪は、帳消しになったのです。神様の愛のうち、最も偉大な愛は赦す愛です。
 しかし、それに代えてイエス様は義なる父なる神に対して、その女性の罪を背負う覚悟だったのです。年長者から始まって、この場からいなくなった人々の罪をもです。何をしているかわからない律法学者やファリサイ派の人々の罪をもです。そのなかに、わたしもあなたも含まれます。
 第二に、真理は魂に自由を与えます。ヨハネによる福音書3:17に、このように書かれています。
「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
 女性は魂に自由を得たのでした。このことを救いといいます。イエス・キリストが人となってお生まれになったのは世の人を罪に定め、永遠の死を魂に与える裁きを行うのではなく、罪を赦し人の重荷を解放する救いに導くことなのです。
 第三に、真理は永遠のいのちを得させます。ローマの信徒の手紙6:23にはこのように書かれています。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです。」
 「わたしもあなたを罪に定めない。」というイエス様の言葉には続きがあります。「行きなさい。」この場から出て行き、新しい生活を始めなさい、と励まします。そして、「これからは、もう罪を犯してはならない。」と罪に支配されることがないように、優しく女性の新しい門出に言葉を添えます。
 死で終わるはずの彼女の人生は、ここに新たに始まったのです。死で終わる人生から、もう一度やり直しのできる人生が与えられたのです。あたかも、人生の回文のようです。彼女にとって、終わりからまた、新しい始まりがスタートしたのです。回文は、前から読んでも後ろから読んでも同じ意味ですが、この彼女の回文は、意味が異なります。初めの彼女の人生は、罪に縛られた人生でした。しかし、救い主を知った生き方がその時から始められたからです。 
 さあ、新しい年も主イエス・キリストという真理のお方から恵みと導きと励ましを頂いて、今年でなければできないユニークな(他と比べることのできない)あなただけの充実した生活をスタートさせようではありませんか!