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校長ブログ

高等学校礼拝「私は、イエスの弟子になれるか?」

2017/06/06

2017年6月6日(火)高校礼拝

 讃美歌  259 
暗誦聖句  交読文25 詩103篇
わが魂(たましい)よ、主をほめまつれ、
わがうちなるすべてのものよ、そのきよき御名(みな)をほめまつれ。
わがたましいよ、主をほめまつれ、
そのすべての恵(めぐ)みを忘(わす)るるなかれ。
主は汝(なんじ)がすべての不義(ふぎ)をゆるし、
なんじのすべての病(やまし)をいやし、
なんじの生命(いのち)をほろびよりあがないいだし、
いつくしみと憐(あわれ)みとを汝にかうぶらせ、
聖書   マルコ9:38−9:50
話    私は、イエスの弟子となれるか?
祈り

 先週の6月3日は、第二の誕生日の日でした。38年前の1979年、ペンテコステは6月3日でした。その日に受洗しましたから、それから38年たちました。
キリスト教の信仰を持つことは、イエス様の弟子となることです。今日の箇所は、イエス様の弟子たちへの戒めと聡(さとし)の言葉で占められています。

 今日の箇所は、マルコの9:30節からのまとまりに含まれます。
30節、31節は、イエス様の十字架と復活との預言です。聖書の中心部分です。
31節「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される」という言葉が、50節までのイエス様の語られる言葉の底に流れています。
そして、このまとまりに表題を付けるならば、私は「弟子と成るには」とつけました。

 「人々の手に」とは誰の手でしょうか。「私たちすべての手に」です。私たちすべての手にイエス様が渡され、私たちの手がイエス様を十字架の死に至らしめたのです。

 30節から37節は、「誰が一番偉いか」を問う議論です。弟子たちという集団では当然誰がリーダーかという現実的な問題が出てきます。要は、誰が一番かということです。
イエス様は、端的に「小さいものに身をつくして奉仕をするもの」が一番先になる、と言われました。「小さいものを受け入れること」が弟子となるための第一の命令です。子供のように小さな者、弱い者を実際に受け入れる大切さを示しています。

 38節から41節は、弟子たちの特権意識に対するイエス様の答えです。弟子たちが問題にしているのは、イエス様に従うか従わないかではなく、自分たちに従うか従わないかです。実際は、イエス様を信じて弟子たちとは別に活動する、名もなき人々がいたのです。イエス様は、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と宣教の他の人々の関わりに対して寛大な姿勢を示しました。イエス様に水一杯差し出す者も、イエスの働きに連なる者なのです。
 これは、「同じ働きをする者には、寛容でいなさい」という命令です。

 42節から48節では、イエス様は、信仰の浅い人たちに、十分に配慮する必要性を厳しく言われました。
42節「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」は、かなり手厳しい言葉です。
さらに、自分をつまずかせるものがあるならば、たとえそれが自分の大切な目や手や足であっても、切って捨ててしまえ、と言います。これも想像を絶する厳しい条件です。
そうでないと、天国に行けないばかりか、蛆と火の尽きない地獄に行くというのです。自分の内側は蛆によって食い尽くされ、外側は火によって焼かれ尽くされる永遠の裁きがあることを具体的に表しています。
 先ほど述べた欠番の44節と46節は、異本では48節と同じ言葉が入っていたそうです。
つまり「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」という言葉が3回繰り返されていたのです。イエス様の弟子になるには、なんと厳しい条件がそろって付くのでしょうか。
これらの言葉を比喩として取らえても、真剣に受け止めなければならない厳命です。「他人を罪に陥らせるな。自分も罪を犯すな」
そして、不可解な49節です。「人は皆、火で塩味を付けられる」
旧約聖書レビ記2:13節にこのような言葉があります。
「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ」
塩は、捧げ物にかけるときに使います。火は、苦難であり試練です。
このことから49節は「弟子であるあなた方は皆、火のような苦難や試練に遭うが、それは避けられるものではなく、そのことによって神の捧げ物にふさわしいものに味付けされ、整えられる」となるのです。
「キリストの弟子と成る条件」をまとめると以下のようになるでしょうか。
1。小さな者を受け入れよ
2。同労者には、寛容であれ
3。他人を罪に陥らせるな。自分も罪を犯すな
4。試練によって自分を整えよ
5。互いに平和に過ごせ
となります。
そして、初めの30節から32節のように、イエス様は、「火のような苦難に遭い、神の捧げ物にふさわしいものに整えられ」、十字架に磔となり、死んで三日目の後に復活します。

 しかし、私はこの条件を満たさない自分を知っています。
小さいものの受け入れに躊躇し、同労者には非協力であり、平気で他人を罪に陥らせ、目も手も足も二つでは足りないほど罪を犯し、試練から逃げ、人々との生活で平和を意識せず、生きています。
このような者の代わりにイエス様は、死なれたのです。ここに、神の愛と犠牲があります。
 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)