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校長ブログ

新年始業礼拝(1〜5年生)

2016/01/07
半月早く咲き始めたロウバイの花

半月早く咲き始めたロウバイの花

 2016/01/07 1年〜5年礼拝
讃美歌 234A 
交読文 38 イザヤ書40章28節
      なんじ知らざるか、聞かざるか
      主はとこしえの神、地のはての創造者にして
聖書   Ⅰテモテ4:6−16
お話し   希望あふれる新年の予感
祈り

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新しい年が明けました。年が明けると不思議と気持がリフレッシュされます。みなさんは、新しい気持ちになって、この年をどのような決意で臨もうと心に決めましたか。決意という強い言葉ではなく、願いという希望を持った人もいるでしょう。2016年という年は、当たり前ですが今年1年しかありません。今年は閏年ですから1日多く、得した気分です。みなさんに等しく与えられた大切な366日です。この1年にあなたしかできない事柄があるはずです。それをどうぞ見つけてください。与えられた時間は、ありがたいことに誰にでも平等です。国内・国外とも憂うべき状況が多々ありますが、明るい希望を抱いて過ごしたいものです。
希望1です。昨年の新年の礼拝で2015を二進数で表すと11111011111という話をしました。真ん中に0があり、残り全てに1が並ぶという、とても美しい並びの数で表される年が2015年でした。今年は、2016年ですからこれに1が加算されます。二進数は、0と1の二つの数しかとりませんから、直ぐに桁上がりが生じます。     
2016を二進数で表すと11111100000となります。左に6個の1が並び右に5個の0が並びます。これも綺麗な並びになりました。1加わっただけですが、下5桁が全くの様変わりをしました。1増えるということは一見些細なことのようですが、変わらない部分と、全く様相が異なる部分がこのように生まれます。1つ年を加えるとは、実はこのようなことだと思いませんか。変わらないところもあるけれども、見事に変わることができる可能性もあるのです。
希望2です。2016は三角数とも呼ばれている数です。三角数というのは、正三角形の形に点を並べたとき、並ぶ点の総数で表された自然数です。3,6,10,15などが三角数です。

    3      6       10          15

   ◯      ◯       ◯          ◯

  ◯ ◯    ◯ ◯     ◯ ◯        ◯ ◯

        ◯ ◯ ◯   ◯ ◯ ◯      ◯ ◯ ◯

               ◯ ◯ ◯ ◯    ◯ ◯ ◯ ◯

                         ◯ ◯ ◯ ◯ ◯

例えば、数(すう)を石の数(かず)で表すと、正三角形状に石を並べることのできる数です。2016は、2016個の石をこのように並べると、高さが63段、最下段には63個の石がきれいに正三角形になります。
河井道先生が天に召されたのは、1953年です。今年は63年目になります。河井先生が亡くなられた翌年から1つ、次の年は2つ、その次の年は3つと石を置いていくならば、今年は63個の石を置くことになり、全部で石の数は2016個です。歴史を重ねるとは、こういうことではないでしょうか。毎年の積み重ねは、ある時にふと気がつくとそれは全体として意味のある美しいものになっていくのです。河井先生の意志(いし)を受け継いで石(いし)を置くとは、「世界に目を向け、平和を実現する女性」となるべく学びを続ける、ということです。今年、この歴史を作るのはみなさんです。
そして、2016は、何ともユニークな数のように見えます。しかし、実はすべての数はなんらかの美しさを持っています。これと同じように、みなさん一人ひとりも、他の人にはないユニークさを神様から与えられているのです。そのことにも気がついて欲しいと思います。
希望3です。聖書日課で与えられた今日の御言葉です。昨年末からのテモテへの手紙一(いち)の続きです。聖書は、いつも自分のために語りかてくる言葉だと思います。今朝のところは、どの箇所が印象に残ったでしょうか。私は、7節「信心のために自分を鍛えなさい。」というところに、心が動きました。9節には「この言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。」ともあるからです。そしてこれは、8節「この世と来るべき世での命を約束する」ものだといっています。この世においても本当の命を得ることができ、更にこの世の命が尽きても、また新しい世界で新しい命を頂くことができるとは、なんと素晴らしいことではないでしょうか。この約束は、同じ7節の前半にある「俗悪で愚にもつかない作り話」ではないのです。このことは、私たちにとって、ドキドキする希望です。
「信心のために自分を鍛えなさい。」とは、どのようなことを言うのでしょう。信心ということば、わかりにくい言葉です。日本には「鰯(いわし)の頭も信心から」という諺があって、「つまらないものでも、信仰の対象となれば有り難いと思われるようになるというたとえ」で使われます。聖書の「信心」という言葉は、このような意味で使われる言葉では決してありません。私の使っている新改訳聖書では、7節は「敬虔(けいけん)のために自分を鍛錬しなさい。」となっています。敬虔とは、一言でいえば、神様を畏れることです。恐れると畏れるは、異なります。恐(こわ)がるのではなく、畏(かしこ)まる、見えないけれども、聖(きよ)く、尊く、私たちを大事にしてくださる神様の存在を意識し、畏(おそ)れることです。
「鍛えなさい」という言葉は、ギリシャのオリンピックに関係のある「訓練」からの言葉だそうです。古代ギリシャは、都市国家の中から、運動能力の優れたものを代表として競技を行いました。代表となるために、一生懸命に訓練をします。今と違うのは、その訓練は、着物を脱いで裸になっての訓練でした。「自分を鍛える」とは、一切の飾り物を捨てて裸の自分となることが出発点です。
「信心のために自分を鍛えなさい。」とは、自分が弱ければ弱いまま、力が足りなければ足りないまま、ありのままの自分になって、神の前を畏れながら歩み続けることです。
現実を踏まえつつ、神様に希望をおいて2016年を進んでいきましょう。