校長ブログ
中学礼拝「たとえ明日が終わりの日でも」
2015年10月5日(月)中学礼拝
讃美歌 Ⅱ161
暗唱聖句 交読文 詩23篇1-5節
主はわが牧者なり、われ乏しきことあらじ。
主はわれをみどりの野にふさせ、いこいの汀にともないたもう。
主はわが魂を活かし、御名のゆえをもて、我を正しき道にみちびきたもう。
たといわれ死のかげの谷をあゆむとも、わざわいをおそれじ。
なんじ我と共にいませばなり、なんじの笞(しもと)、なんじの杖、われをなぐさむ。
聖書 ルカによる福音書21章20-28節
お話 「たとえ明日が終わりの日でも」
讃美歌 171
祈り
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今日の聖書の箇所は、20節からの続きですが5節から振り返ってみます。
ルカの他にマタイによる福音書、マルコによる福音書にも同じような記事があります。3つの福音書に書かれているくらい大切と言えるでしょう。この箇所は、キリスト教の終末について、どのようなことが起こり、どのように心がけたら良いかという教えが書かれています。
5,6節:ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
とイエス様は、この世界の終わりについて話されます。
世界の終わりには、このような前兆があるというのです。そして、その事柄にこのように対処しなさいとも付け加えます。
(1)偽キリストが現れ、「わたしがキリストだ」「時が近づいた」と言いふらす。イエス様は、「惑わされないで、従ってはいけない。」と注意します。
(2)戦争や暴動がる。民は民に、国は国に敵対する。イエス様は、「おびえてはならない。世の終わりは直ぐには来ない。」と慰めます。
(3)大きな地震、飢饉や疫病、天文気象の大きな異変がある。
(4)イエスを信じるものに迫害がおこる。イエス様は、「対抗や反論もできないような言葉と知恵をあなたがたに授ける。」イエス様は、「あなたがたの髪の毛一本も決してなくならない。忍耐によって、命を勝ち取りなさい。」と励まします。
終わりの時のしるしは、もう一つあります。
(5)エルサレムが軍隊に囲まれる。イエス様の預言から40年後、西暦70年にエルサレムは異国人のローマ兵によって包囲され、陥落しました。6節の聖書の御言葉が実現したことになります。このことは、終末への過程であって、まだ、終わりのときではありません。
エルサレムの滅亡は、神の真理の担い手であったユダヤ人たちの時代が終わり新しい時代に入った事を告げます。旧約が終わり、福音は、イエス様の教えを伝える弟子たちによって広く全世界に伝えられて行きます。新約の時代、それが24節の異邦人の時代です。マタイのよる福音書の24章14節には、こう書かれています。「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」
27節:そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
これがイエスキリストの再臨の様子です。その日キリストは、審判者として大いなる力と輝ける栄光を帯びて、雲に乗ってくるのです。人の子とは、ひとの形をとったキリストです。キリストによる最期の審判が下されます。あらゆる死者をよみがえらせてキリストの前で裁きを行い、永遠の命を与えられる者と地獄に墜ちる者とにふるい分けます。この日は、神に敵対するものには、恐怖と刑罰が与えられ、迫害されている信仰者には、解放の日であり救いの成就する記念の時となると、聖書は書いています。
一昨日の10月3日は、ドイツの統一記念日でした。1990年10月3日に東西ドイツは一つのドイツとなりました。統一ドイツの最初の大統領は、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーです。彼の1985年に行った「荒野の40年」という演説は、あまりにも有名です。彼の兄カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカーは、物理学者であり哲学者で第2次世界大戦中は、ドイツで原子爆弾の開発を行い、戦後はキリスト教の立場から平和運動を勧めました。
カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカーは、キリストの再臨の教えで、生き方が変えられた科学者です。優秀な物理学者として原爆開発に従事していた彼は、戦後、科学の目的が必ずしも人類に幸せな結果をもたらさないことを知って悩み苦しみます。彼の書いた書物「歴史的観点からみた信仰と自然科学との対話」に、このような一節があります。「(私は)自然科学の研究を一切放棄しなくてはならないのではないか、とよく自問する。」この問いに対して、20世紀のキリスト教に大きく影響を与えたスイスの神学者カール・バルトから助言をもらいます。バルトは、
「キリストの再臨を、もしあなたが信じているならば、あなたは続けて自然科学をおやりになってもよろしいでしょう。」
と答えたと言います。バルトの言葉を彼なりに読み取り、自然科学の真理とキリスト教の信仰は、関わりのないものではなく、同じ一つの真理の上に立つものであり、むしろ歴史の流れにおける自分自身の位置をはっきり示すものである、とカール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカーは理解し自然科学の研究に打ち込めた、といいます。
この答えは、神様に喜ばれる生活をしながら再臨を期待し、今与えられている環境のなかで引き続いて過ごしなさいということです。
ドイツで宗教改革を起こしたマルティン・ルターは、「明日世界が滅びるとしても、今日私はリンゴの木を植える。」という有名な言葉を残したといわれています。私たちは、今日一日、自分に託された仕事を精一杯やるだけだ、という意味において、簡潔明瞭な言葉です。
このように考えると、世の終わりとは決して未来のことではなく、現在のあり方そのものがもうすでに世の終わりの一部に含まれていると言えるのではないでしょうか。
水曜から中間試験が始まります。定期試験のために勉強することは、二つの意味で大切です。
一つは、自分の普段の学びの確認です。日頃の勉強をより確かなものとして確立し、評価を受けることの意義があります。
二つ目は、世の終わりに翻弄されない自分自身の置き所です。大きな船は、嵐が来ても流されないように錨を降ろします。錨は重いほど、船を海底に固定して漂流から防ぐのです。今取り組む課題の大きさこそが、あなたの現在の居場所を確かなものとするのです。