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高等学校礼拝 「愛すること、仕えること」 11月11日(月)

2019/11/11

グラハム トーマス

屋上バラ園に咲くマチルダ

讃美歌 Ⅱ161 輝く日を仰ぐとき
暗誦聖句 イザヤ書9章5節     ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
                                                           ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
                                                           権威が彼の肩にある。
聖書 エフェソの信徒への手紙 5章21~33節
お話  「愛すること、仕えること」
讃美歌 546
祈り

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 今日の聖書の箇所は、「妻と夫」と小見出しが付いています。夫と妻との関係を教会とキリストの関係に対比して述べられています。恵泉デーのとき、卒業生がたくさん来校しました。独身で社会で働いている卒業生、結婚して子育てに専念している卒業生、子どもを育てながら会社で働いている卒業生と様々でした。こうして礼拝を守っている高校生から、将来結婚して家庭を持つ人たちも多いと思います。今日の箇所から学ぶことはあるでしょう。

 はじめは妻から夫へ対するアドバイスです。21節「互いに仕え合いなさい」を含めると、22節「夫に仕えなさい」24節「夫に仕えるべきです」と「仕える」という言葉が3回書かれています。33節は言葉を変えて「夫を敬いなさい」となっています。一方夫から妻へはどうでしょうか。21節「互いに仕えなさい」は妻と共有ですが、25節「妻を愛しなさい」、28節「妻を愛さなくてはなりません」、33節「妻を自分のように愛しなさい」と「愛する」という言葉が3回現れています。パウロが言いたいのは、夫は妻を愛しなさい、妻は夫に仕えなさい、ということです。この手紙は、紀元一世紀に教会の信徒たちに宛てた手紙ですから、21世紀を生きる私たちに必ずしも当てはまるものではない、と疑問を感じる人もいるでしょう。しかし、私たちが本質的にどう生きるべきか、どうあるべきかを考えた時に、2000年の間読みつがれてきた書物として貴重な手がかりを与えてくれるものだと思います。

 パウロが教会に送った手紙は、実は私たちは「妻を愛する夫」でもなく、「夫に仕える妻」でもないのです。私たちは完全ではありません。理想と大きく外れた存在です。それを知っているからこそ、なおパウロはこの手紙を信徒たちに書いたのです。
 聖書は、夫婦の問題を旧約聖書の創世記から扱っています。創世記1章27節には、
「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」と書かれています。
 はじめにアダムという男性が土から造られ、生命の息が吹き入れられ、エデンの園に置かれました。神様は、人が独りでいるのは良くない、相応しい助け手が必要と考え(2;18)、アダムのあばら骨を取って女性、エバを造りました(2:22)。頭の骨でも足の骨でもなく、脇腹の骨です。アダムが両手でいつも守ることのできる位置にある骨です。アダムのハートに近い骨から女性は生まれました。神様の男と女を創造する巧みな配慮がなされているところだと思います。
 アダムは、エバを見て「これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」(2:23)と言います。
エフェソ書5章31節「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」の箇所は、結婚はこのように、男と女のはじめの状態に戻ることです。

 ところが、アダムとエバが罪を犯してしまったために、二人は、神様の前に出ることができなくなり(3:8)、二人の間には亀裂が生じました。それは、エバがヘビの巧みな誘惑に陥り、アダムを誘い善悪を知る木から実をとって食してしまったからです(3:6)。神様からの問いに、アダムは「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました(3:12)」と責任をエバに押し付け、エバは、「蛇がだましたので、食べてしまいました(3:13)」と言い逃れをしました。自分さえ助かればいいという自己中心の思いが生まれました。それが今日まで私達が負っている罪です。アダムはエバを弁護し、エバはアダムを庇(かば)うべきだったのです。その時から私達は自己中心の遺伝子を引き継いでいます。

 しかし、救いはあります。エフェソ書1章7節「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」と書かれています。この御子とはイエス様です。イエス様による十字架の贖いによって、私達の罪は赦されました。神の御子の死によって、エデンの園が回復したのです。私たちには、神の御子イエス様による救いが恵みによって用意されています。これが、聖書の福音、良い知らせです。
 この肉体を帯びている限り私達は、簡単に「愛すること」や「仕えること」は、できません。しかし、イエス様が私達のために死んでくださったという愛に立ち返り、もうひとりの助け主聖霊の力をかりれば、私たちはできるのです。
 「キリストが教会を愛したように、夫は妻を愛しなさい。教会がキリストに仕えたように、妻は夫に仕えなさい」となっています。しかし、教会はキリストを愛し、キリストは教会に仕えたことも事実です。したがって、「夫は妻に仕えなさい、妻は夫を愛しなさい」と言ってもいいのではないかと私は思います。これが7節の「互いに仕え合う」ことです。

 先日ある人から、「愛について考えているのですけど、愛とはなんですか」という質問をされました。「愛とは、人を大切にすることです」と答えました。人を愛するというとは、好き嫌いというような恋愛感情を持つように聞こえますが、愛するとはその人を大切にすることです。イエス様は自分の命と引換えても、私を大切にして下さったのです。
 恵泉に入学して最初に覚えた暗誦聖句「人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい」(ルカによる福音書6章31節)は、その人を大切に思う心が働いて初めてできることです。
「愛すること」を「大切にすること」と言い換えると、夫と妻の関係以外にも当てはまることに気が付きます。これから「人を大切にすること」、「人に仕えること」を少し気にしながら生活できると素晴らしいと思います。恵泉デーは終わりましたが、クラス、クラブ、委員会等実践できる場所が、まだまだたくさん与えられています。今日の聖書のハイライトをお読みします。
 「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」(21節)