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校長ブログ

新年礼拝「岩の上を歩む」

2019/01/07

校庭に咲くバラ

2019年 1月7日(月)全校礼拝

讃美歌 262
暗誦聖句 イザヤ書40章28節から
:28 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦(う)むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。
:29 疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
:30 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
:31 主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。
聖書 使徒17章1節から15節
讃美歌546
祈り

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 新年おめでとうございます。新しい年を迎えることができる恵みを神様に感謝いたします。今年は2019年です。いつものように数の遊びから始めましょう。2019=1の4乗+2の4乗+3の4乗+5の4乗+6の4乗です。1から6までの数字によって構成された実に美しい数です。
 2019というこの数は、無限にある数の中から唯一つのものです。あなたがたも、神様が造られた何十億、何百億人という多くの人の中の唯一の人です。今年は、2019年という1年を創立90年を迎える節目にいただきました。
 この年を、生かされているユニークな自分として、恵泉で学び、恵泉で生活し、もちろんプライベートなときにあっても、神様から示されたあなただけにしか出来ない事柄に挑戦していきたいものです。

 私の通っている教会では、年の最後の礼拝で、洗足式を行います。昨年は、12月30日でした。
 洗足式のことは、ヨハネによる福音書13章に詳しく書かれています。最後の晩餐で、イエス様は「弟子への愛を限りなく示す行為」を足を洗うというかたちで示されました。
 イエス様が生きておられた時代の履物はサンダルでした。イスラエルは、砂漠地帯ですから、一般の人々の足はいつもホコリまみれで汚れていました。足を洗うことは、相手の前に膝をかがめて、頭を垂れなくてはいけません。しかも、汚れている足は手で洗うのです。イエス様がしてくださったことは、このようにお互いにへりくだって愛を示しなさい、ということだったのです。
 私たちの教会では、男女に分かれて、お互いの足を洗います。洗足式になるといつも思い出す言葉があります。
 私の通う教会の創立者の言葉です。アメリカ人の彼女は、アメリカのインディアナ州でとても大きな教会を牧会していました。洗足式を行うとき、いつも長い列が何列もできます。彼女もその列に加わりますが、並んでいると自分が洗いたくない人の足を洗わされることになってしまうのだそうです。このことを通して、自分が好きでなくても、他人に仕えること、へりくだることを学ばされる、と笑って語っていました。
 互いに仕えることの大切さをイエス様は教えてくださいました。恵泉でも、お互に謙遜な気持ちを持って、仕え合っていけたらと思います。
 それと同時に、気が付かされたことがありました。イエス様は、弟子の足をclear(清い)にしたと同時にholy (聖い)としたのです。私達の足は、何のためにあるのでしょうか。立つため、歩くためにあります。愛によって聖められた足は、しっかりした聖い場所に立ち、しっかりした聖い道を歩まなければならないのです。

 今日の聖書箇所で一番印象に残ったところはどこでしょうか。私は、3節です。
「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」と説明し、論証した。
 メシアはヘブライ語であり、ギリシャ語の日本語表現ではキリストです。パウロは、どのようにイエスがキリストであるかを論証したのでしょうか。2節には、「3回の安息日にわたって聖書を引用して」とあります。パウロは、当時ならば旧約聖書を引用して論じあったのでした。つまり私を救ってくださるお方は、苦しみを受け十字架で死なれ復活なさったイエスだ、という聖書箇所です。
 おそらく、イザヤ書53章からも引用したでしょう。イザヤ書53章5節と10節に、このように書かれています。

:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
:10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。

 救い主がおられるなら、天の高いところから人々を見下すのではなく、私たちの苦しさ、罪深さを知り、私たちの汚れた足を洗うこともいとわないお方です。その方は、地上に降り立ち、私たちを憐れみ、無条件の愛によって罪深い私たちに代わって十字架にかかられた方です。
 自分が学んできた聖書(旧約聖書)と体験から、パウロは、「このイエスこそキリストである」と確信したのです。今日読まれた聖書箇所の半分は、迫害の記事です。それでも、パウロの確信は揺らぐことがありません。
 聖書の中心は、どこまでも「キリストとされたイエス様」です。そして、聖書のメッセージは「キリストとされたイエス様による、私たちの救い」です。
 恵泉女学園は、今年創立90周年を迎えます。河井道先生が創設時の思いをこのように書かれています。
「わたし自身の女学校を建てたいという以前からの夢がますますはっきりとそだってきて、今、心の内に強いはげましの声を感じた。「今こそ、キリスト教主義の学校を始める時だ」
 今まで89年間、恵泉女学園は、今やキリストとされたイエス様を学園の主として歩んで来ました。これからも確固たる信念を持って、揺らぐことなく岩なるイエス様にしっかり立ち、90年目も歩んで行こうと年初に強く思いました。