校長ブログ
オリエンテーションキャンプ開会礼拝
宿泊ホテルの庭に咲く富士桜
2014年オリエンテーションキャンプ開会礼拝
讃美 永遠にあなたと
聖書 エレミヤ29章11節 わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。
お話 神様の熟慮と配慮
祈り
讃美歌 90
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高校生活を始めるに当たり、気持ちを切り替えて心を新たに出発すべくオリエンテーションキャンプが始まります。今年の4年生の学年目標は「熟慮・配慮」です。熟慮とは、「時間をかけて十分に考えること」であり、配慮とは、「良く考えて心をくばること」です。何事も許す限り時間をかけ、良く練っていろいろと考え、実行に移す時は、周りの状況を十分に考え、なす事を行おう!ということだと思います。 今日は、視点を変えて神様の熟慮と配慮が人の人生にどのように働いたかを、創立者河井道先生を通して学びます。
先生の書かれた「わたしのランターン」は、先生が62歳の時、恵泉女学園創立10周年の時に、英語で”My Lantern”としてお書きになったものを後になって日本語に訳したものです。 「まえがき」では、1927年2月河井先生がアメリカYWCA本部の仕事で立ち寄ったアメリカ南カロライナ州の美しい家に咲いていた桜の花が、河井先生の故郷に咲く彼岸桜の一種であったことに気がつくところから始まります。彼岸桜は、冬が過ぎて先祖のお墓参りの季節を知らせるものです。そして、故郷の彼岸桜のそばに苔むした質素な墓があり、そこに眠っている優しかった尼さんの梅香さんの話へと、太平洋を越えて時間をさかのぼって語られます。 「まえがき」では、墓が死んだ人の眠りの場と捉えられ、梅香さんの温かい人となりが紹介されます。 河井先生62歳。成熟したキリスト者の信仰に立って、ご自身の振り返りの中からこのことを描写しています。墓という死の象徴が、決して暗さを伴っていない書き出しとなっているのは、河井先生の生きる軸足の確かさを物語っているようです。 また第1章「彼岸桜」では、尼僧である梅香さんの人格は、河井先生のお手本ではなかったのかなと感じられます。 村に住職がいなくなったときに、村人が集まって梅香さんを呼び寄せるかどうかの会話が書かれています。
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「でもな、あの人は女じゃあないかね」と、もう一人が言った。 「男でも女でもかまうことはない、徳があって慈悲をわきまえたお人ならな」。
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この会話では、慈しみや情けを心得た人格的な人ならば、男か女ではなく、社会的なしきたりや風習でもなく、その社会的な役目をまっとうできる、という村人の考え方があります。今日では当たり前ですが、当時としては画期的な考え方です。このように、冒頭に書かれているこのことは、河井道先生の女性としての生き方を、いっそう確かなものにしたのではないでしょうか。 「彼岸桜」の章は、このように河井先生の人生の伏線がいろいろと散りばめられていて、大変興味のある章です。
明治維新の改革で、父が伊勢神宮の神官の職を失い、1886年河井道先生10歳の時、一家5人で北海道に渡ります。この北海道は、当時どのような所だったのでしょうか。 黒田清隆(くろだきよたか)という薩摩藩士がいました。1870年台、北海道の開拓を指揮していました。後に伊藤博文に次いで2番目の内閣総理大臣になる人物です。1874年に、北海道開拓使長官に就任し、北海道の近代化に取り組みます。2年後、東京から北海道へ向かう船の中で、アメリカより招聘したウイリアム・スミス・クラークと教育についての話をします。クラーク博士は、新島襄の推薦で日本政府の要請により、札幌農学校の教育を担うために来日しました。クラーク博士は、札幌農学校の教育を当然ながらキリスト教主義を土台に行うことを要望しますが、黒田清隆は承諾しません。札幌農学校が開講されるという前日の夜になっても、議論はかみ合いません。結局黒田清隆は、暗黙の了解でクラーク博士のやり方を認めます。彼の力量の大きさを感じます。河井道先生の家族が北海道に移住する12年前の1876年7月です。新島襄の進言と黒田清隆の黙認が札幌農学校を変えます。神様の熟慮の現れです。 クラーク博士は、1826年アメリカ合衆国のマサチューセッツ州に生まれ、アーマスト大学を卒業し、ドイツで博士号を取得、帰国後アーマスト大学教授となり(このころ新島襄が留学していた)、マサチューセッツ農科大学の初代学長となりました。学長の1年間の休暇を利用して訪日し、実質的な校長を務めます。札幌農学校の校則について、博士は「この学校に規則はいらない。“Be gentleman”(紳士であれ)の一言があれば十分である」と開拓使長官の黒田清隆に進言したと言われています。博士は、科学とキリスト教的道徳教育の薫陶(くんとう:徳の力で人を感化し、教育すること)を学生に与えました。札幌農学校1期生との別れの際クラークが言ったとされる「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」は、よく知られています。因みにそれは1878年4月16日、136年前の一昨日の出来事です。そして、博士の精神を引き継ぎ2期生からは新渡戸稲造、内村鑑三が排出していています。 クラーク博士の1年間の休暇と博士の熱意が日本の若者を変えます。 新渡戸稲造は、1862年南部藩盛岡(岩手県中部)の武家に生まれました。15歳の時、札幌農学校の2期生となります。卒業後東京帝国大学に入学し、東大の講義内容が札幌農学校時代よりもお粗末だったことを理由に、1884年中退してアメリカのジョンズ・ホプキンス大学に私費留学をします。1891年帰国して、札幌農学校の教授になります。この時、河井先生は、15歳です。河井道先生に歴史の勉強を教えています。後に河井先生にアメリカ留学を勧め、河井先生の生涯の師と呼ばれます。河井先生の平和に裏付けされたキリスト教的世界観は、もうこの時期に生まれ始めていた、想像されます。 新渡戸稲造の東大中退とアメリカ留学が日本を変えます。 札幌農学校が設立されてから2年後、1880年サラ・クララ・スミスがアメリカから宣教師として、東京に来ます。新渡戸稲造の生まれる11年前の1851年に、アメリカのニューヨークで生まれています。東京の新栄女学校(今の女子学院)の校長になりますが、東京の気候になじまず体調を壊し(重いリュウマチ)、療養のために季候の良い北海道に渡ります。1886年、河井道家が北海道に渡った年、北海道尋常師範学校(官立の師範学校)の英語教師になります。「女学校をひらく」という初志を捨てきれずに、1887年札幌にスミス女学校を開校します。馬小屋を改造した校舎兼寄宿舎で学び、河井先生は、このスミス女学校第一期生となります。河井道先生の可能性を広げ、キリスト教の教育者としての模範となったのがこのスミス先生です。園芸についても、スミス女学校で興味を持ちます。すでに、河井道先生が恵泉の特徴ある教育の聖書、国際、園芸はこの時期に体験したことに根差しています。 サラ・クララ・スミス先生の治療と初志が河井道先生を変えます。 なんと不思議な神様の配慮なのでしょうか。河井先生のお父様が失職したことさえも神様の熟慮のように思えます。 少し前後しますが、河井道先生9歳の時、キリスト教の伝道師になっていたお父さんの従兄弟(いとこ)に、偶然に出会います。この方の紹介でキリスト教主義の女学校に入りますが、道先生は馴染めませんでした。外国人の先生に声を掛けられるとそれだけで震え上がってしまいます。教室で本を読むように名指しされると、震えだし、知らないうちに泣き出してしまっていました。クラスメイトの裁縫箱が無くなったときは、上手く答えられずに、自分が盗んだように思われてしまい、精神的にとても辛い時期を過ごしました。結局その学校を退学してしまいますが、この経験が河井先生の人生で役に立つこととなります。それは、祈ることと、讃美歌を歌うことです。キリスト教の信仰の土台が身についたのです。河井先生の祈りは、父親に伝わり、「いざいざためらうことなかれ」という讃美歌Away! Away!は、河井先生が勇気を振り絞って困難なことに出会うときの応援歌になっていました。
アメリカでの学びを終えて帰国すると、27歳で津田英学塾教授に就任します。35歳でYMCA(キリスト教女子青年会)の日本人総幹事となります。 1921年、河井先生43歳の時アメリカ経由でスイスでYWCAの大会に参加して、感動的な場面に出会います。戦争の悲惨さに傷つく女性と悲惨さに打ち勝って友好を回復する女性を目のあたりに見ます。 河井先生は、「戦争は、女性が世界情勢に関心を持つまでは決してやまないであろう。」と深く洞察するのでした。「それなら、若い人たちからーそれも、少女たちからはじめることである。」と学校設立へ、神様が導いていることを感じていきます。 1926年このことを生涯の恩師新渡戸稲造に相談します。ところが一番信頼し、何でも相談して、助けてくれるはずの新渡戸から、河井道先生の学校設立の思いを反対されます。そのことがあっても新渡戸稲造は、陰に陽に河井先生を支えていきます。 ここでは、簡潔に書かれていますが恩師の反対は、河井道先生にとってはかなり、ショックであったようです。この後、信仰の先達植村正久の娘植村環をスッコットランドのエディンバラに訪ねて「私の切なる願いでもある、キリストの福音によって若い人々の心の培(つちか)いに直接あずかりたいという思いを満たすために、わたしは自分の学校を立てたいと思う」と思いを述べたといいます。イギリスに信仰の友を置いたのは、神様の配慮です。 そして、力付け支えてくれたのは、北海道に来て最初に入ったミッションスクール、河井先生が中退した学校で覚えたあの讃美歌でした。 「いざいざためらうことなかれ」、”Away, away, not a moment to linger(いこう!いこう!ぐずぐずしていられない。”linger”:「居残る。居座る」)”という曲です。なんという神様のご配慮なのでしょうか。
1929年4月恵泉女学園が設立されます。「わたしのランターン」が書かれたのは、1939年と言いました。その前年の1938年インドのマドラスで開催されたキリスト教世界大会に日本代表の一人として出席なさったところで。「わたしのランターン」は終わっています。最後の部分をご紹介します。 ——————————————————————————————————-
『わたしの仕事が一般人々の目を引くにはあまりにも取るに足りないようでも、わたしはいつも希望に満たさせていただきたい。局外者はわたしを笑い、あざけり、夢想家だと思うとしても、わたしには死んで三日目によみがえったイエスキリストがいる。わたしやわたしの仕事には、復活の第三日目がとっておかれているのです。』 ———————————————————————————————————
人には、一人ひとりに与えられた神様からの使命があります。神様は、それを実現すべく、事を熟慮し、配慮なさっているのです。新高1の皆さんにも同じような神様の熟慮と配慮があります。心を大きく持ち、神様の計らいに期待したいと思います。