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校長ブログ

高校礼拝 「人間のための安息日」

2014/04/22

 

2014-04-1113.14.57
駐車場の空き地に咲くパンジー

 

2014年22日 高校礼拝

讃美歌 148
暗誦聖句 交読文25 詩103篇
聖書 マルコによる福音書 2章23-28
お話  人間のための安息日
讃美歌 546

 最近海外から送られてきた赤ちゃん羊の写真のコメントに、このようなことが書かれていました。  羊は、秋に身ごもり、春は出産シーズンです。私の住んでたイギリスの片田舎では、羊が草を食んでる光景が常に有って、顔の先が黒い羊、真っ白な毛の羊、モップのように長い毛の羊がゾロゾロいました。遠くから見ると、毛玉のようで、可愛らしい光景でもありました。羊の群れには、猿のように決まったリーダーやボスがいなくて、上下関係もないとかで、群れの中のどれか 1頭が危険を感じたり、何かに気づいて反応すると、他の羊もみんな追従するそうです。だから、1頭が走り出すと、全頭が一斉にあとに続いて走る。羊にとって「自分だけ別の行動をする」ことは非常に不安なことで、1頭だけになるとパニック状態になるそうです。捕まえるのも難しいので「1頭の羊を捕まえるよりも、100 頭の羊を捕まえるほうがたやすい」と言う英語の格言があるほどです。群れの最後のほうにいる羊は、自分がなぜ走っているのかさっぱり分からないそうです。

 羊には、「個」がないようですね。そのような羊が幸福か幸福でないかは、わかりませんが、日本国憲法で幸福追求権について書かれているのは13条です。幸福追求権は、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」となっています。  今年の2月24日の朝日新聞の天声人語にこのように書かれていました。 『憲法の核心とされる13条の「すべて国民は、個人として尊重される」という部分を自民党の改憲草案は、これを「人として」に変える。「個」をなぜ削るのかという疑問が書かれていました。草案づくりに携わった首相補佐官のホームページには、該当の条文が「個人主義を助長してきた嫌いがあるので」改めたとある。』 好き勝手放題を個人主義だと思っているのしょうか。  このことを詳しく調べてみるとこのようなことが分かりました。  憲法13条の英文をみると、「すべて国民は、個人として尊重される」は、“All of the people shall be respected as individuals.”となっています。「個人」は”individuals”です。”individual“は、一個の独立した人格、という意味があります。これを「人」に変えると“person”になります。”person”は、「人一般」を表します。  個人の対極は、国家です。人としてしまうと、国家が見えてこなくなるばかりか、国家の対極としての個人が見えなくなります。『権力を拘束し、人権と自由を守る憲法の役割からすれば、確かにここは個人でなければならない。』とそのような危惧を天声人語の論者は述べています。

 今日の聖書箇所に戻ります。 イエス様とその一行を何とか陥れようとファリサイ派の人たちは、イエス様たちの動きを監視しているようです。イエス様の言動に反発している彼らは、イエス様のあら捜しをしますが、弟子たちの振る舞いの中にそれを見つけました。 良い知らせ「福音」を伝え、人々を律法から解放するために来られたイエス様と、律法を守ることで信仰の強さを自分たちだけで誇っていたファリサイ派の人々とでは、血の通う人間にとって何が主で、何が従であるかが異なっていました。  人間を良く生かすか、そうでないかが判断基準だとイエス様は言われます。今日の聖書箇所で大切なのは、27節と28節です。 「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」人を守る律法が、人を裁くものになってはいけないのです。このように言えるのは、「だから、人の子は安息日の主でもある。」という言葉です。「人の子」とは、イエス様のことを指します。 マルコによる福音書は絶えず宣言しています。「わたしこそ、人間を救い、人間を解放し、人間に真の安息を与える権威のあるものである。このようにできるのはわたしがキリストだからである。」と。    今日の聖書で、安息日のために人があるのではなく、人のために安息日があるという論理に立てば、「個人」は「国家」のためにあるのではなく、「国家」が「個人」のためにある、ということになります。個人を守る憲法が国家権力の論理に組み込まれてはいけない、ということです。 2000年前のイエス様の言葉が、何と新鮮で画期的な意味を内包している言葉だろうかと思うのです。

 キルケゴールは、人間の価値についてこのように書いています。 『人間であることはなんと素晴らしいことでしょう。−われわれは、この素晴らしさについて、どんなに長く語っても語りつくすことはできませんし、またそうすべきでもありません。だからわれわれはむしろそのすべてを簡単にたった一つの言葉に集約しましょう。それは聖書自体が権威をもって使っている一つの言葉です。「神は御自分にかたどって人を創造された。」」 これは、旧約聖書 創世記1章27節の御言葉です。

 人類は、前世紀の20世紀に大きな世界大戦を2度経験しました。第一次世界大戦では2000万人の死者、第二次世界大戦では5000万から8000万人がなくなっています。一人の命は、地球より重いといわれながら、このような尊い命が失われたのです。傷ついた人、愛する人を失った人の数は、はかりしれません。  日本は、第2次世界大戦後、このような過去の悲惨な過ちの歴史を振り返り、このような戦争はこれから決して起こしてはならないと決意し、日本国憲法をつくりました。国民主権、基本的人権の尊重、非戦平和の3つが日本国憲法の三大要素です。国民主権とは、国の政治のあり方を最終的に決定する権力は国民にある、ということです。日本国憲法では「個人の尊重」は、極めて大切に扱っています。個人はみんな違い、一人ひとりに個性があって、その違いを認めた上で、互いに尊重し合うのです。  近代の立憲的意味での憲法は「国家権力を制限して国民の権利・自由を守ることを目的とする」憲法です。それは、すべての価値の根源は、個人にあるという思想です。  だからなおのこと、私たちは、与えられた個人の重みを十分理解して、他者を顧みない利己主義にならないような自戒が必要です。これを逆手にとられると私たちは大切なものを自ら失うことになります。  脅かされて先頭を走る羊になってはいけません。もちろん、自分がなぜ走っているかを知らない羊になってもいけません。  あと11日後の5月3日は、憲法記念日です。どうか一人ひとりが自分と日本国憲法の関連について考えて下さい。