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校長ブログ

中学礼拝 ーキリストのアイコンタクトー

2014/09/24
記念日本間で拾ったドングリ

記念日本間で拾ったドングリ

讃美歌194
暗誦聖句 交読文 24 詩100篇
     全地よ、主に向かいて喜ばしき声をあげよ、
      喜びをいだきて主につかえ、
     うたいつつそのみまえにきたれ。
      知れ、主こそ神にますなれ、
     我らを造れる者は主にましませば、
聖書 コロサイの信徒への手紙 2章1節~5節
お話 キリストの奥義 
讃美歌 546
祈り
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 月曜日の礼拝でコロサイの場所は、確認できましたか。3回にわたる伝道旅行でもパウロは、コロサイには行ってはいません。パウロがローマの獄中でこの手紙を書いたと言われていますが、訪れたことのない教会へパウロは、なぜこのような手紙を出したのでしょうか。パウロの弟子のエパフラスがコロサイの教会に大きく関わり、フィレモンは、重要な教会員でした。パウロにとっては、孫の教会です。他の教会と同様に大切な教会だったのです。その大切な教会に、正しいキリストの教えではない教え、異端と呼ばれる教えが入って来たのです。このような異端の教えに、純粋な信仰を持っている教会の人々が「巧みな議論(2:4)」によって惑わされていたからです。パウロは、「揺らぐことのない信仰に踏みとどまり、あなたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。(1:23)」と諭します。異端の教えに対して、パウロは正しい「福音という真理の言葉(1:5)」を祈りもって伝えているのがこの手紙です。

 遠く離れたローマから、手紙を書き、祈ることしか方法がないのは、熱血漢のパウロにとっては歯がゆいことだったに違いありません。しかし、手紙だからこそ、書かれたことを歴史に残すことができました。祈りがあったからこそ、神さまに聞いて頂くことができました。手紙も祈りもパウロにとっては、最善の方法であったと思います。最善の方法を神さまは用意していたのです。これも神さまのご計画だったのです。
 私は、今朝の聖書日課の箇所で気になったところがあります。2節にある「神の秘められた計画」という言葉です。私の記憶ではこの箇所は「奥義」という言葉が使われていたように思えたからです。調べてみると、1章26、27節と4章3節も「神の秘められた計画」となっています。この箇所は、大正時代の文語体による聖書や1955年の改訳聖書、新改訳聖書では「神の奥義」となっています。ギデオン協会から頂いた英訳付きの聖書で英訳では” the mistery of God”となっています。“mistery”は、「神秘的なこと、不可解なこと、なぞ」を意味します。小説や映画では「推理もの、ミステリー」となっています。それを「秘密の計画」と解釈し「奥義」と訳したのでしょう。今日の新共同訳では、「秘められた計画」としています。分かりやすく整った訳になっています。
 今年の恵泉デーのテーマ「探求」にあやかってこの「秘められた計画」=「奥義」を調べてみました。英語の“mistery”は、新約聖書の書かれたギリシャ語では、“ムステリオン”という言葉です。そしてこの“ムステリオン”という言葉をさかのぼってたどると、「口を閉ざす」という意味の言葉になります。そして、「口を閉ざす」とものが言えなくなるからなのでしょうか、「目配せをする」という意味の言葉に到達します。ギリシャ語で“ミュエオウ”という言葉です。
 相手に自分の気持ちを伝えるときに、お互いが深い交わりで結ばれている場合に、口で表す音声による言葉ではなく、目の合図で意思を通じさせることがあります。このような意思の伝達を、「目は口ほどに物を言う」ということわざが巧く表現しています。サッカーの試合では「アイコンタクト」で、次のプレイの指示を出す、などに使われています。そのように仲間内で親しい関係になったときに、隠されているものがわかる事柄が「奥義」なのです。
 パウロが手紙を書いたコロサイの教会には、ユダヤ人がたくさんいました。旧約聖書の律法主義を厳格に守るユダヤ人たちのみが理解し得る閉鎖的な集団で奥義という言葉が使われていました。また、ギリシャ人もいて、ギリシャの哲学的な思想をよく理解して得られるものを奥義と称している一群がありました。このように、自分たちに属している者にしかわからない知恵やある程度修行を積まなければわからない知識を奥義として仲間うちでの特権意識を持っていたのです。異端の教えを述べる人たちは、その奥義がわからないと神の国はわからないと語るのです。
 パウロは、その奥義という言葉を逆手に取って、キリストの奥義はそのように閉鎖的なものではなく、もっと世界に開かれて、誰にでもわかる福音こそがキリストの奥義だ、と書いています。キリストの奥義は、2節「人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられて、悟るようになる」とコロサイの信徒を励ましています。
 相手の言葉を巧みに使ったパウロの異端に対する反論が続きます。3節にある「知恵」は、ユダヤ人が一番大切にしていたものです。そして、「知識」は、ギリシャ哲学の思想では中心的なものです。ユダヤ人の「知恵」とギリシャ人の「知識」以上に「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。(2:3)」、とキリストの福音のすばらしさを説き、彼らを論破していきます。
 キリストの奥義は、私たちの罪のために十字架にかかり、死んでよみがえったキリスト御自身だ、と説明しています。このキリストの内に、すべての知識と知恵があり、その奥義こそ「(あなたがた)異邦人にとって栄光に満ちたもの(1:27)」だ、と力強く説いているのです。
 本来神さまと親しい関係であった人間が、罪によって神さまからの目配せを読み取れなくなりました。しかし、イエス・キリストの十字架により、人間の罪が赦され、神さまとの交わりがキリストを通して息を吹き返すことができたのです。目に入っていたウロコがとれ、キリストを通して神さまの目配せが分かるようになったのです。これこそが全ての人に開かれた「キリストの奥義」であり「神さまの秘められた計画」なのです。すべての人に提供されているイエス・キリストの愛とその力は、年齢に関係なく、男女に関係なく、職業に関係なく、広く全世界の人に開かれたキリストの奥義なのです。これが神の秘められた御計画なのです。

  今週の金曜日は、合唱コンクールです。1年生から4年生が、府中の森芸術劇場で初めて行います。恵泉女学園創立80周年の記念コンサートが日本フィルハーモニー交響楽団を招いて行われたところが府中の森でした。すばらしいホールです。
 今から20年も昔、私が恵泉の前に勤めていた男女共学のキリスト教学校でのことです。中学2年生を担任していたときの話です。やはり合唱コンクールがありました。課題曲が決まり、クラスで自由曲が決まりました。そして、指揮者と伴奏者が選ばれました。ともに大変名誉ある役割です。
 クラスに重い聴覚障がいを持った男子生徒がいました。N君といいます。背は小さいけれど運動神経が抜群でサッカー部に入っていました。N君は、FMマイクと補聴器を用いて、授業は一番前で受けていました。N君は、話す人のクチビルを読むこともできました。しかし、歌はうまく歌えないのです。一生懸命歌うのですがクラスの合唱としてのハーモニーを崩してしまうのです。合唱コンクールの当日は、N君には欠席してもらおう、と過激な提案をした女子がいました。その賛否を巡ってケンケンガクガクの議論がされました。そのとき、指揮者に決まっていた女子が「そうだ。N君には、指揮者をやってもらったら」と言いました。「N君はピアノの伴奏が聞こえないじゃないか」と誰かが言いました。「大丈夫。私がピアノの音を聞いて、N君に伝える。」彼女は、ピアノの奏楽者とN君の両方から見える位置にたって、指揮者のN君に音楽の流れを伝える役目になりました。舞台の最前列一番左側のポジションでした。彼女は、指揮者を支える陰の指揮者になりました。合唱コンクールは、指揮者にとっては華やかな舞台となります。彼女は、自らその場所をN君に譲ったのでした。N君が指揮者になって良いことがありました。隙があれば合唱の練習をサボる男子生徒が練習に参加するようになりました。自分たちの友達、しかもサッカー部では一目置かれているN君が指揮者とあっては、練習に出ざるを得なかったのです。
 当日、緊張した面持ちでN君を先頭にクラスのみんなが舞台の上に並びました。陰の指揮者からのアイコンタクトを受けて、クラスの秘められた計画が始まりました。N君は指揮棒を振り、その指揮棒をみて伴奏者がピアノを弾き、合唱が始まりました。課題曲と自由曲が終わると大きな拍手がクラスのみんなを覆いました。特に、聴覚に障がいを持っているN君が指揮者として活躍したのを見て、観客は感激していました。同僚の先生から「耳の聴こえないN君がよくがんばって指揮をしましたね。」と言われました。その先生は、舞台の左に立った陰の指揮者には、気が付かなかったようでした。優勝は、残念ながら3年生に持っていかれました。でも、クラスは一人の欠席者も出さないで、合唱コンクールをそれぞれの思いとともに終えることができました。
 キリストの奥義とは、キリストの十字架とともに自分も十字架についたのだ、ということを自覚することだと思います。自分が前面に出るのではなく、自分本位の考えを捨て、他の人を生かすことです。
 恵泉の校歌にある「友なき人の友となる」ことは、キリストの奥義を実践することです。
 そして、合唱コンクールの一番の目的は、歌声でそのようなことを示して下さる神さまを賛美することにあるのです。

 

(参考資料):ティンデル聖書注解 コロサイ人の手紙、ピレモンへの手紙 N.T.Wright いのちのことば社
      ピリピ・コロサイ人への手紙 小林和夫 日本ホーリネス教団出版局
      ピリピ・コロサイ・テサロニケ バークレー ヨルダン社  
      ウエブサイト Blue Letter Bible