校長ブログ
中学校礼拝「バラバ達のその後」10月1日
賛美歌 332
暗誦聖句 交読文 詩23篇 1から4節
聖書 ルカ23:13−25
お話 バラバ達のその後
祈り
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今日から10月です。2018年度は、半年が終わり後半の6ヶ月になります。毎日の学園生活を一日一日大切に過ごしたいですね。毎日の礼拝にも、聖書の語る言葉を自分に語りかけている言葉として、しっかりと耳を傾け、心に刻んでください。
今朝の聖書箇所には、3種類の人間が登場してきます。23章13節にすぐ登場してきます。ピラト、祭司長と議員たち、民衆です。この人たちの人間としての弱さに、注目しましょう。
始めはピラトです。ピラトは、ローマ帝国からこの地方を治めるために派遣され総督と呼ばれていました。ユダヤ人指導者たちから告訴されていたイエス様を裁く立場にいました。イエス様は、3つの理由で告訴されました。
1.国民を惑わす。2.皇帝に税を治めることに反対している。3.自分をユダヤ人の王キリストと言っている。
しかし、ピラトは14節「わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。」、20節「ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。」、22節「この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。」と、イエス様の無罪を3回主張します。
更に、15節「ヘロデとても同じであった。」と、ユダヤの王もイエスの様の罪を認めていないと言いました。二人の世の権力者が、イエス様は完全に無罪だったと述べたのです。
2番目は、祭司長と議員たちです。ユダヤ社会の上層部にいた人たちです。
おそらく3番目の理由でイエスを許せなかったのでしょうが、22章2節を見ると「祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。」とあります。イエス様を殺すために、ローマ帝国の力を利用しようとしたのです。マタイによる福音書27章18節には「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。」と書かれています。ねたみとは、他人の幸運・長所をうらんで、幸福な生活のじゃまをしたくなる思うこと(新明解国語辞典)です。病人を癒やし、目の見えない人の目を開け、足の不自由な人を歩かせ、民衆から慕われていたイエス様に、ねたみを持ったのです。罪のあるなし、罪の重さ・軽さに関わりなく、イエス様を貶(おとし)めることが目的だったのです。社会的地位が高く、権力を持っていながら自分自身へのプライドから自分より優れている人に、この人がいなければ良いと思ったのです。ねたみは、人を殺人者に変えてしまいます。ユダヤの最高指導者にも人間の弱さがありました。
3番目は、民衆です。1週間前、イエス様のエルサレム入場のときに、イエスが進んで行かれると、「人々は自分の服を道に敷いた。(19章36節)」、
「そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。(マタイ21章9節)」。ホサナは、救い主を求める喜びの声です。
ほんの少し前まで、民衆は自分たちの服を脱ぎ、イエス様がロバに乗ってこられる道に敷いて、シュロの葉を振りかざして大歓迎をしていたのです。ところが今は自分のはっきりした考えを持たずに、大きい声の他人の意見に簡単に同調してしまう、そのような弱さを民衆の中に見ることができます。
1番目のピラトに戻ります。ピラトがイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけたときに、民衆は、「十字架につけろ、十字架につけろ」(18節)と叫び続けたのでした。今日の聖書では、17節が抜けています。別の古い聖書では、23章16節には、このように書かれています。「祭りのたびごとに、ピラトは、囚人を一人彼らに釈放してやらなければならなかった」と。民衆は、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを釈放するように求めたのでした。ピラトは、民衆の叫び声が大きくなり、暴動に発展するのを恐れ、民衆の要求に従いバラバを釈放し、イエス様をその代りに十字架に付ける決断をします。ピラトは、イエス様の無罪を信じながら無罪の決断ができなかったのです。真理を曲げて、民衆の圧力に負けたのでした。「ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった(23節)」。
私は、この3種類の人達の行動を他人事とは思えません。なぜなら、私はピラトであったり、祭司長であったり、民衆であったりするからです。あるときは、人をねたむ祭司長です。あるときは、真理を曲げて圧力に屈するピラトです。あるときは、自分の意志を持たず、強い意見に付和雷同する民衆です。あなたは、どのグループに自分を見出しますか。
投獄されていたバラバは、釈放されました。バラバの罪をイエス様が十字架の死によってあがなったからです。あがなうとは、お金や品物で罪や失敗の埋め合わせをすることです。イエス様は、ご自身の命でバラバを死刑からあがなったのです。赦されたバラバのその後の消息を福音書は、記述していません。なぜなのでしょうか。
バラバは、イエス様を信じた私だからです。イエス様によって十字架で罪を打ち消されたバラバは、私であり、あなたです。あなたもイエス様を信じることによって、イエス様の十字架によって生かされ続けます。今日登場したすべての人間の弱さを一切ひっくるめて、イエス様は身代わりとなって十字架を背負われたのです。
今生きている人の消息は、福音書には書けません。生まれ変わって生きる私達がイエス様の証人となってこの世界という書物に、自分の物語を書いていくのです。