校長ブログ
2学期始業礼拝(1~5年生)ー「私が」ではなくー
讃美歌 313
聖書 フィリピの信徒への手紙1章1節から11節
お話 「私が」ではなく
祈り
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2学期は、このフィリピの信徒への手紙から始まります。2学期を始めるにあたり、素晴らしい聖書箇所が用意されていてとてもうれしいです。その理由の一つは、この手紙はわずか4章からの比較的短い手紙ですが、喜び(joy)喜ぶ(rejoice)という言葉が16回も出てきます。この手紙を書いたパウロは、書いたとき獄中にいたのです。21節「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」とあるように、獄中での生活は死と隣り合わせであったと、想像がつきます。パウロの生年月日は不明ですが、この時は決して若くはない年です。年をとり自由がなく死を意識した人間が「喜ぶ」という言葉を多く用いている理由は、パウロの思いをイエス・キリストが占めていたからです。1節と2節にイエス・キリストは、3回も現れてきます。「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテ」「キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち」「わたしたちの父である神と主イエス・キリストから」とあり、これこそがパウロの喜びの源です。イエス・キリストにある喜びは、「あなたがたに、恵みと平安があるように」と、他の人々を祝福する言葉に変えられるのです。
フィリピの教会はヨーロッパでできた一番初めの教会です。今ヨーロッパに行くと何百、何千という教会があります。それらの教会の始まりがフィリピの教会です。
フィリピは、エーゲ海の北、ギリシャの北西部ですぐ北にブルガリアが見えます。パウロが行った第2回目の伝道旅行の様子が使徒言行録16章に詳しく書かれています。聖霊によってアジア州(今のトルコあたり)での伝道が止められ、アジアの最西端にある町トロアス(トロイの木馬で有名な町)で、幻を見ます。一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」という幻です。この幻が神からの宣教命令であると受け止め、パウロはトロアスから船に乗ってエーゲ海を渡り、マケドニアのネオポリス(今のカバラ)に上陸し、フィリピに行きます。当時フィリピ(今はピリッポイと呼ばれている)は、近くに金鉱山があり、東のビザンチン(今のイスタンブール)から西のアドリア海に臨む港町デュラスを結ぶエグナティア街道が通る重要な経済都市でした。この街道は、幅6m、舗装された長さ1200kmというから驚きです。
フィリピでは、ルデアという紫布の商人の女性が信仰を持ちました。ヨーロッパで初めのクリスチャンです。紫布はこの地方の特産品で、高価なものでした。ルデアは、自宅を開放したりとパウロに献身的な協力をします。
また、ユダヤ人以外の人々にもイエス・キリストの福音が伝わっていきます。
それから、10年後にこのフィリピの教会にパウロが獄中から送った手紙がフィリピの信徒の手紙です。
2学期を始めるに当たり皆さんには、9節からのパウロの祈りに注目してもらいたいと思います。
人が集まると問題が起きるように、フィリピの教会にも問題がありました。教会で有力な二人の婦人の間に、反目があったようです。仲が悪かったのです。互いに自分が上で、相手を見下していたのでしょうか。教会の中心として働いている者同士が上手くいっていないとどうなるでしょうか。教会はバラバラになります。パウロは、神様の教えを知って、大切なことに気がついて欲しいと祈っています。互いに非難したり責めたりする前に、あなたがたに「知る力」と「見抜く力」を身に付けてもらいたいと祈っています。それによって、相手を深く理解するようになり、理解は愛をますます豊かにします。また、同じ目的に向かって歩むという意識が生まれ、本当に重要なことを見分けられるようになるのです。最終的にあなたがたは、「清い者」「とがめられるところのない者」となるのですと、パウロの優しい気持ちと切実な思いが伝わってきます。
パウロは次のような言葉も用意しています。2章3.4節
「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」
私は7月26、27日と静岡にある牧ノ原やまばと学園を訪問しました。平川先生と田島先生、そして18名の生徒とです。御存知の方も多いと思いますが、やまばと学園は恵泉との繋がりの深い場所です。恵泉の英語教師であられた長沢道子先生が今やまばと学園の理事長をなさっています。
長沢道子さんの夫の長沢巌さんが1958年榛原(はいばら)教会の牧師に就任して、重度知的障がい児の施設建設に取り組みました。1970年に重度の知的障がい児の収容施設「やまばと学園」が設立します。その3年後1973年には、成人の施設ができます。ところが、1983年長沢巌先生が髄膜腫摘出手術に失敗。四肢まひ、視力障がい、意識障がいという重度心身障がい者になります。長沢道子先生は巌先生の看護とやまばと学園の理事長を務めます。 その長沢道子先生が書かれた文章を読ませて頂きます。
『長沢巌は、1983年2月に髄膜腫(ずいまくしゅ)摘出手術をうけ、だれもが手術の成功を楽観視していましたが、結果は深刻な事態となり、やまばと学園の誰よりも重い心身障がい者になりました。約80年近い人生の内、三分の一を、無力な状態ですごさねばならなくなったのですが、「なぜ、神さまは、全身全霊をもって神と隣人に仕え、牧ノ原やまばと学園のために全力投球していた人間を、誰よりも重い心身障がい者にしたのか?」という疑問は残ります。これは不可解な質問とも言えますが、その意味を問うことは、無意味ではないでしょう。
気づかされたことは、こんなことでした。
まず、リーダーの長沢巌が重度心身障がい者になったことを通して、学園の関係者たちは、障がい者と健常者とは紙一重であることを改めて認識させられました。この人たちが担っている重荷に、改めて、自分たちの姿勢を正される日々になったのでした。
次に、真に不思議なことですが、もしかして、神様は、長沢巌の願いをかなえたのかもしれないという発見です。彼は、元気な頃、「牧ノ原やまばと学園の長期計画」という文中において、計画をたてることも必要だが、まず何よりも、自らを無にして、神に働いてもらう必要があると述べているからです。つまり、「おれが、この仕事をしている」とか「わたしが」という自分を誇る思いや、自己中心的な思いから完全に解放されて、神に導いて頂くことを願ったのでした。実際、長沢が無力になり、非力な私が理事長に選出されましたので、その後の牧の原やまばと学園は、神に導いて頂くしかすべが無くなったのですが、活動の場はかえって広がるという体験をしました。
「自分が無になる」ことを願った長沢の願いを、神は聞き届けられたのでしょうか?いずれにしても、福祉の働きは、自己を誇る思いからではなく、普遍的な価値観に基づいて進められるべきことをおしえられる気がします。」
「福祉に生きる 長沢巌」 長沢道子著
このことは、福祉の世界だけに当てはまることではありません。
2学期は、1年から4年生は、合唱コンクールがあります。また、恵泉デーもあります。学校生活の中で、自分自身のあり方がいろいろと問われる場面が出てきます。あなたは、どのような自分自身でありたいでしょうか。あるべきでしょうか。