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校長ブログ

フェロシップ

2014/07/17
??-3

みんなで行った浄蓮の滝

讃美歌 Ⅱ-1
聖書  エフェソの信徒への手紙 5章8、9節
あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。
 ――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――
讃美歌 546

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フェロシップの目的は、何でしょうか。しおりのはじめに、このように書かれています。
(1)建学の精神を学ぶ   (2)自分を見つめる  (3)友達つくり、先生との交流
です。この開会礼拝では、創立者河井道先生のことについて、河井先生を変えた出会いについてお話します。
「出会い」が人の人生を変えると言います。三つの出会いがあります。
1.神さまと出会う  2.人と出会う 3.自分と出会う
この三つだと思います。
 この出合いがなければ、日本の教育界に大きな働きをした河井道先生も、恵泉女学園もないのです。出会いとは、とっても不思議な神様のご計画なのです。

 河井道先生は、お父様の仕事がなくなり、北海道に家族で行くことになります。函館で偶然、父のいとこの中須治胤(なかすはるたね)と出合いました。彼は、函館の教会で働いていました。道先生は、伯父の紹介で、函館のミッションスクールに入りますが、裁縫箱事件が起こります。友達の裁縫箱がなくなり、河井先生に盗みの疑いがかけられてしまいます。河井先生は、おとなしい性格で一言も弁解せず、ただ泣くだけでした。一層疑いがかかってしまいます。見かねたお母さんは、道先生をそこから退学させました。

 ここで、スミス先生との出会いがあります。ミス・サラ・クララ・スミスという名前ですがここではスミス先生と呼びましょう。スミス先生は、1851年生まれで河井道先生より26歳年上になります。教育者になる学校を卒業して後、フランスとドイツに留学しました。サラ先生の御兄さんは牧師でしたが、若くして亡くなりました。サラ先生は、お兄さんの志を継ぐ決心をして、宣教師として日本に来ます。29歳の時です。30歳のとき、札幌でスミス女学校(現在の北星学園)を開設しました。
 函館で伯父と一緒に働いていたスミス先生は、北海道の中心である札幌に移って、新しい地で全寮制の女学校を建てようという気持ちをもっていました。スミス先生は、その中心となる生徒を函館から数名連れてきたいと思っていました。道先生は、伯父のすすめでスミス先生の家を訪ねました。初めのミッションスクールの先生と違って、スミス先生は少しも怖くなくいどころか、道先生にお菓子やきれいな色の毛糸をくれました。道先生は、喜んで家に帰りました。その次の日も次の日もスミス先生の家に行く事が楽しくなり、すっかりスミス先生が好きになりました。札幌に行くことを嫌がっていたのですが、スミス先生の温かい人柄に触れて、札幌に行くことがもう嫌ではありませんでした。道先生は、札幌のスミス先生の家の二階に住むことになりました。英語をスミス先生から習います。スミス先生と一緒に生活するにつれて、勉強以外にもスミス先生からいろいろと教わります。これが本当の教育なんだと道先生は、思いました。
 金曜日の夜がなんと待ち遠しかったことだろうと書かれています。スミス先生は、一緒に遊んだり、道先生のことをからかったりして、大変親しくなりました。また、スミス先生は道先生が他の人と少し違うことを知っていて道先生を普通の人間に育てようと力を尽くしていたようです。道先生は、内気で引っ込み思案でした。良い意味で思慮深く、物事を深く考える内省(自分自身の言葉や行いや考えを深く顧みる)型の生徒でした。
 『スミス先生は、わたしの人と変わっているところをよく知っておられ、わたしを人なみな人間に育ててやろうと力をつくしてくださった。けれども、先生のあの賢明さでも、わたしがした奇妙なことの裏にひそむ理由を、想像しかねる場合が時々あったのではないかと思う。今でもおぼえているのは、ある時、病気の父のことを考えていて、ひとりっきりになって、もっと父のことを考えたいと思いながら寄宿舎へと長い廊下を歩いていくうちに、ふと、壁の上の方にある、ランプの受け棚が目こついた。こんなにかけ離れた場所がある。ここなら、誰も、小さな生徒をさがそうにも、思いつかないようなところだ。自分でも何をしているのか、本当にはわからないうちに、わたしはきゃたつを持って来て、その受け棚へと登っていった。が、わたしがそこに腰掛けたとたん、それは壁からはがれて、わたしもろとも、床の上に落ちてしまった。自分がしてしまったことの恐ろしさが頭にいっぱいで、怪我をしたかどうか問題ではなかった−−わたしはスミス先生の受け棚をこわしてしまったのだ、先生はきっとお叱りになるだろう。わたしは、先生のところに行くのが、こわかった。いつか先生が、「もしわたしたちが、心から天の父なる神様にお祈りすれは神様はきっと答えてくださいます」と言われたのを思いだした。そこでわたしは、階段の下の押入れにもぐりこんで、そこでわたしのはじめてのほんとうの祈りを捧げた。それから、こわれた受け棚をかかえて、スミス先生のところに行き、ふるえながら「わたくしがこわしました。どうぞおゆるしください」と言った。
 先生の大きな眼が、私を射とおすように探りぬいた。
「こわしたのですって。どういうふうにして?」
「腰かけたんです。」わたしは先生の顔をまともに見られなかった。
「これに、腰かけたんですって。」と彼女は叫んだ。「なぜ?」
「わたし、あの、わたし、ただ腰かけたかったんです」。これだけがやっと言えた。
「もうちょっと、ものわかりがなかったの。これはランプだけのものです。誰と一緒だったのです?」
「誰も」。
「それでは、ほんとに、それに腰かけたの。」
 わたしは泣きだした。
 急に、スミス先生は笑い出された。「こんどからはね、これはランプをのせるもので、あなたのような大きな人をのせるのではないということを、よくおぼえていらっしゃいよ。すんだことは仕方がないのです。もう心配しなくていいのですよ。もう向こうに行っていいです。」
 それを聞いて、わたしは、とんで帰った。その間、わたしの心はわたしの初めてのほんとうの祈りがきかれたという驚きでいっぱいだった。スミス先生はお叱りにならなかったからだ。』
 ここで、道先生は神さまと出会っていることに気が付きましたか。
 「ほんとうの祈りがきかれたという驚きでいっぱいだった。」というのは、自分を助けて下さる方がおられることを、体験を通して河井先生は、知ることが出来たのです。
 ゆるされて道先生の気持ちが軽やかになりました。わたしのランターンでは、ここから北海道の自然に話が移っていきます。伊勢で生活した河井先生には、北海道の自然は驚きの連続であったようです。ゆるされるという経験は、人の気持ちをこのように開放するものなのです。心の壁がなくなるのです。
 春になると雪の中から「あらゆる種類の思いがけない楽しいものが、いろいろの形をとって現われてきた。」クロッカスであったり、野生の野花であったり、クマであったりしました。生徒は、庭に自分たち一人一人の場所を受け持って、好きな植物を植えることができました。この時の河井先生の経験が恵泉の園芸教育に繋がっていくのではないかと思います。
 次に忘れてはならない恩師は、何と言っても新渡戸稲造先生です。
 多くの優れた先生に道先生は、習いました。でもその中で一番長く大きく影響を与えた先生は,歴史を教えていた新渡戸稲造先生でした。
 『しかしすべての日本人の先生方の中で、わたしの生涯に、一番長く続く感化を与えたのは、歴史の先生だった新渡戸博士であった。先生は、学校のすぐ隣りの大きな洋館に、美しいアメリカ人の夫人といっしょに住んでおられた。お梅さんが放課後先生の家のお手伝いに選ばれた時は、どんなにみんな、羨ましがったろう。新渡戸夫人が、フィラデルフィア出身だと聞いてから、わたしたちは、米国の地理に興味を持ちはじめた。新渡戸博士は、ユーモアたっぷりの才で、先生の庭のさくらんぼをとってよいと言われながら、あとで、わたしたちをさくらんぼ泥棒と呼ばれたときほど、全く煙に巻かれてしまったことはない。』
 道先生が英語ができるようになると、自分の英文日記を道先生に口述筆記させました。毎週土曜日に夜は、新渡戸先生の家で、道先生はその仕事をしました。
 ある時、道先生に新渡戸先生は、アメリカの大学に行って勉強しないかと言われます。道先生は、考えただけでも恐ろしくなり、それを断ります。道先生が20歳になったとき、新渡戸先生は自分がアメリカに行くことになったので、一緒に行かないかと勧めました。道先生はアメリカに渡る決心をし、幸いにも、津田梅子(津田塾大学の創立者)が学んだブリンマ一女子大で学ことができました。新渡戸先生は、道先生の一生を通して物心面で様々な援助をしてくださいました。
 いろいろな場面で聖書との出会いがありました。イエスさまとの出合いといっても良いと思います。
 函館で偶然会った先ほどの父のいとこの中須治胤(なかすはるたね)によって、キリスト教の福音が河井家にもたらされました。河井先生が、始めに入学したミッションスクールでの経験も決して無駄ではありませんでした。その時覚えた聖書や讃美歌を道先生は、お父様に教えるのです。また、苦しいとき辛いときに初めて覚えた讃美歌が道先生の口から出るようになっていました。道先生のお父さんは、聖書を読み、感動したところは赤インクで印をし、大切なことは、聖書に書き込んだそうです。お父様がイエスさまと出合ったのです。そして、毎日のお祈りに、北に向かって、キリスト教の神に祈りを捧げました。そのような環境で10歳で道先生は信仰を持ちました。先ほどのマイランターンP63の6行目に真の悔い改めの祈りを捧げています。イエスさまに、本当の自分の気持ちを伝えています。そして、スミス先生に謝っています。「わたしがこわしました。どうぞおゆるしください」
 ローマの信徒への手紙10章10節「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」
 そしてとても興味あることとして、スミス先生も新渡戸先生もイエスさまを信じていたことです。この二人によって、道先生はイエスさまに強く導かれていったのですね。ここに、河井先生が所属した東京富士見町教会の教会員名簿があります。受洗は1889年。場所は、北海道札幌。洗礼を授けた牧師は、井深梶ノ助。教保(信仰の親)は、ミス・セラ・スミスとなっています。
 これらの出会いを通して、河井先生は自分自身と出会っているのです。
 今日の聖書の箇所の「光の子」は、神さまの子どもを意味します。内気で静かな女の子が「光の子」として積極的に世界に向かって平和の大切さを発言することのできる強い信念を持った女性に、成長します。そして、やがて困難な時代に恵泉女学園を創立するのです。