
校長ブログ
牧師・教会関係者との懇談会「開会礼拝 神が備えてくださる」
2018/06/03 牧師・教会関係者との懇談会
聖書 創世記 22章1節から9節
賛美歌 284 「主のとうときみことばは」
お話 神が備えてくださる
祈り
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アブラハムのための捧げ物が息子イサクであり、神はそのイサクの代わりに雄羊を備えてくださった。それは、私達のために身代わりとなって十字架につかれたイエス・キリストの雛形です。父なる神が私達のために御自身の独り子を惜しまずに、代わりに捧げられた。
このことを考えると、私達は信仰の父アブラハム、そして神の約束によってアブラハムとサラに奇跡的に与えられたイサクよりも、神に愛されていることが分かります。。
キリスト教学校は、信仰と、聖書の教えや倫理観を教育の基盤においています。教会の信仰によって直接的、あるいは間接的に建てられたのがキリスト教学校です。ですから教会の信仰の子どもがキリスト教学校と言っていいでしょう。
恵泉女学園中学・高等学校では、毎朝の礼拝で、神様を賛美する賛美歌が歌われ、神様の御言葉である聖書が朗読され、それに応答する祈りがイエス・キリストのお名前によって、捧げられています。イエス・キリストの御名による祈りは、十字架で死なれ三日目に死から蘇られ、父なる神の右に座したもう私達の主、主イエス・キリストの権威と恵みによって学校の一日が始まっていることの証です。
創世記の22章8節にある「神が備えてくださる」の御言葉は、神様の主権にお任せし、それに忠実に従っていけば、すべてのことは、神様が備えてくださる、ということです。モリヤの地が「ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)」と名付けられ、後にその丘にエルサレムの神殿が建てられたことを考えると、まさに「主は備えてくださるのです」。
ならば、教会とその信仰の子どもであるキリスト教学校には、神を敬い、み旨を行うならば、神様は惜しむことなく必要な事柄を備えてくださらないわけはありません。
8節の終わりにはこのように書かれています。「二人は一緒に歩いていった。」
今までも、そしてこれからも教会と学校はともに神様を礼拝し御旨が行われるべく、歩んで行くのです。それは、行き先に主の備えがあるという約束です。希望を持って今日の懇談会を進めていきましょう。
今年度の一番初めの職員会議でお読みした御言葉で開会礼拝を終えましょう。マタイによる福音書6章33節です。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
この「みな加えて与えられる」は、「備えられる」といってもいい言葉です。